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「宮崎駿さんもそろそろ終わりだね」のひと言が変えた……『魔女の宅急便』ヒットの理由

今だから語れる制作秘話! 『魔女の宅急便』プロデューサー洗礼の日々

2020/03/27

 スタジオジブリ制作の4作目となる「魔女の宅急便」は逆風のなかのスタートだった。1984年の『風の谷ナウシカ』の公開以降、『天空の城ラピュタ』(1986)、『となりのトトロ』(1988)の興行成績が思わしくなく、映画業界での宮崎駿監督作品への視線は冷ややかなものとなっていた。しかしこの『魔女の宅急便』は大ヒットとなり、フリーだったアニメーターの社員化も可能にした。宮崎監督の右腕だったプロデューサー・鈴木敏夫氏が語る制作秘話。

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高畑さんに断わられ、宮さんに持ち込んだ『魔女の宅急便』

『魔女の宅急便』は、スタジオジブリとしては初となる外部からの持ち込み企画としてスタートしました。

 広告代理店を通じて話が来たのは、1987年の春、ちょうど『となりのトトロ』『火垂るの墓』の制作が本格的に始まった頃でした。バブル景気とともに、日本映画も元気になりかけていた時期です。映画制作に企業がタイアップするのが始まったのもこの頃。『魔女の宅急便』はその最初ともいえるかもしれません。なんといっても、原作に「宅急便」がついているということで、広告代理店からすると、これ以上分かりやすい企画はなかったんでしょう。

 じつはこの企画、最初は「高畑勲監督作」ということで持ち込まれました。ところが、高畑さんが断ったので、宮さんに「こういう企画が持ち込まれてるんですけど、どうします?」と聞いてみたんです。そしたら、「おれ読んでる暇ないから、鈴木さん読んでよ」と言われてしまった。

 そういう場合、宮さんという人は必ず次の朝に感想を聞くんですよ。だから、仕事の終わった夜更けにいっきに読みました。もちろん児童文学としては素晴らしいと思いました。でも、それをどういう切り口で映画にしたらいいのかとなると、話はとたんに難しくなる。

鈴木敏夫氏 ©文藝春秋

「田舎から都会に出てきて働く女性たちのことを描いた本」

 悩みながらその日は寝ちゃったんですけど、明くる朝、案の定、宮さんから「どうだった?」と聞かれました。僕もその頃にはずいぶん宮さんに鍛えられていたんでしょうね。そういうときには反射的に言葉が出るようになっていました。

「この原作、見た目は児童文学ですけど、たぶん読んでいるのは若い女性じゃないかと思いますね」

「どうして?」

「たぶん田舎から都会に出てきて働く女性たちのことを描いた本なんですよ。彼女たちは好きなものを買って、好きなところへ旅行し、自由に恋愛も楽しんでいる。でも、誰もいない部屋に帰ってきたとき、ふと訪れる寂しさみたいなものがあるんじゃないかと思うんです。それを埋めることができれば映画になりますよね」

 と、その場の思いつきで言ったんです(笑)。すると宮さんが「おもしろいじゃない」と俄然興味を示しました。自分で言っておきながら、ほんとうにそういうテーマで作るべきなのかどうか、最後まで悩むことになるんですが……。

「言っていたことなんて、どこにも書いてないじゃないか!」

 とはいえ、宮さんは『トトロ』の制作の真っ最中。自分で作業することはできません。と同時に、「いつまでも俺たちジジイが映画を作っていてもしょうがない。若い人に機会を与えようよ」という思いもあった。そこで、自らはプロデューサー兼脚本家を務め、監督には宮さんの元で演出の勉強をしていた片渕須直くんを抜擢することになりました。

『トトロ』の制作が終わると、宮さんはすぐに脚本執筆に入ることになりました。ところが、原作を読んでの第一声は、「鈴木さんの言っていたことなんて、どこにも書いてないじゃないか!」というもの。いや、直接書いてあるわけじゃないんですけれど……と話し合ううち、結局、シナリオを書く作業にぜんぶ付き合うことになってしまいました。

 宮さんの事務所があった阿佐ヶ谷に脚本の完成まで毎日通い詰めましたかね。何か聞かれたり相談されるごとに、すぐにパッと答えられるよう、朝から夜までずっと隣にいました。