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再びマウンドに戻ってくる日まで。私が岩隈久志を恨み続ける理由

文春野球コラム Cリーグ2020

2020/05/29

 人間、生きていれば恥をかくこともある。だが、私が岩隈久志にかかされた恥は一生消えないだろう。

 気を持たせるのも無粋なので、あらかじめ言っておく。私の「逆恨み」である。自覚しながらいまだに根に持っているのだから、人間の遺恨はしぶといと実感する。

岩隈久志

超高校級右腕の前で「死ねなかった」無念

 今から21年前のことだ。私は無名の高校球児として最後の夏を迎えていた。私学ながらスポーツ推薦もなく、強豪とは呼べないレベル。それでも監督から常に「甲子園」を意識づけられ、強豪を慌てさせるだけの実力はついたと自負していた。

 夏の西東京大会4回戦で対戦する堀越には、プロ注目の本格派右腕・岩隈がいた。我々は岩隈が投げるであろう140キロ級のスピードを想定して、ピッチングマシンを通常時より前に出して打ち込んだ。

「よく練習した。お前たちなら、明日絶対に岩隈を打てるから!」

 試合前日のミーティングでコーチからねぎらわれ、私たちに怖いものはなかった。

 だが翌日、試合前に堀越のキャプテンとメンバー表の交換をした私は、愕然とした。堀越の先発メンバー表に岩隈の名前がない。つまり、温存されたのだ。

 ナメられてる。一刻も早く岩隈を引っ張り出してやる。意気込む私たちの前に広がっていたのは過酷な現実だった。1対11の5回コールド負け。私はしばらく野球を見るのも嫌になるほど立ち直れなかった。堀越が準決勝で日大三高にコールドで敗れたことは、新聞で知った。

 その後、岩隈はドラフト5位で近鉄に入団し、日本を代表する投手に君臨する。メジャーリーグでもノーヒットノーランをしてしまうような、世界的投手になった。一方の私は大学で野球を続けるだけの実力も度胸もなく、あまつさえ大学デビューにも失敗。落語研究会で堕落した日々を過ごした。

 岩隈の活躍はつぶさにチェックして、同世代として心から応援していた。だが、私には「岩隈と対戦できなかった」という恥ずかしさが、常につきまとっていた。

 日本ではアウトカウントを「1死」「2死」と、「死」という物騒な漢字を用いて表現する。岩隈が今の地位を築くまでには、彼の前に膨大な数の「死」があった。私は、その一体の屍(しかばね)にすらなれなかった。「有名選手との対戦経験を自慢げに語る」という野球部あるあるを、私はしたくてもできない。

 ずっと引きずり続けてきた私に岩隈との接触のチャンスが生まれたのは、2009年のことだった。当時、私は野球雑誌の編集者をしており、上司から東北楽天のエース・岩隈のインタビュー取材に同行するよう命じられたのだ。

 とはいえ、貴重なインタビュー時間を奪ってまで、「高校時代に対戦できなかった話」をされても本人は困るに違いない。夏の亡霊のごとく、野球界隈をふわふわと漂う私と違って、岩隈はスター街道を真っすぐに進んでいるのだ。気安く話しかけるようなことは絶対にするまいと心に誓った。

 岩隈の取材対応はとても丁寧だった。口数が多いわけではないが、ライターから掛けられる一つひとつの質問をしっかり受け止め、自分の言葉で返してくれる。「プロ野球選手はこうあってほしい」と思わせる、お手本のような対応だった。ライターの隣で話を聞きながら、「別世界の人なんだな」とあらためて感じていた。

 岩隈の協力的な姿勢もあり、インタビューは想定した時間よりも早く終わりそうだった。最後に数分残った段階で、ライターが私に「菊地さんからも何かありませんか?」と水を向けてくれた。私は「もう、困惑されてもいいや。言ってしまおう」と開き直ることにした。