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政権中枢の疑惑を立件せず

 16年1月、「週刊文春」は安倍政権の屋台骨を支えていた甘利明経済再生相の口利き疑惑を当事者の生々しい証言で詳細に報道。あっせん利得処罰法違反の疑いは明白だったが、特捜部は甘利事務所への家宅捜索さえ行なわず、不起訴処分とした。

「14年の小渕優子元経産相への捜査ではハードディスクを電動ドリルで破壊する悪質な隠蔽工作まであったが、議員本人までは立件せず。いずれも黒川氏による“調整”と囁かれました。そして政権中枢の疑惑を立件しなかった論功行賞といわんばかりに、官邸は同年夏に黒川氏の事務次官昇格人事をゴリ押しするのです」(同前)

 法務検察は、黒川氏と同期の林氏を将来の検事総長候補と位置付け、黒川氏を地方の検事正として転出させ、林氏を事務次官とする人事案を作成。ところが官邸側はこれを蹴り、露骨に人事に介入してきたのだ。

林名古屋高検検事長 ©共同通信社

「官邸は過去3度廃案になっている『共謀罪』の成立を見越して、黒川氏の調整能力が欠かせないと判断し、彼の次官昇格を求めたのです。翌年の共謀罪の国会審議では答弁が心許ない金田勝年法相に代わり、刑事局長だった林氏が矢面に立ち、法案成立のために粉骨砕身した。ところが、17年夏の人事では再び官邸が介入。裏で汗をかいた黒川氏の留任が決まるのです」(同前)

 そして18年1月。林氏は三たび、官邸に法務事務次官就任を阻まれ、名古屋高検検事長に転出することになったのである。

「きっかけは大臣官房に“国際課”を創設するにあたっての省内の軋轢でした。当時の上川陽子法相はハーバード大出身のグローバル志向で、海外で活躍できる法曹家の育成を目指す“司法外交”をテーマに掲げていました。その司令塔として官房に国際課を置くことは、黒川氏の構想とも合致した。一方で、省内で絶大な権力を持つ刑事局にはかねてから国際課があり、その名称と機能を官房へと移すことに、局長の林氏が異を唱えたのです。『きちんと説明した』『いや、聞いていない』という応酬で、大臣官房vs.刑事局の対立構図になった。結果的に刑事局の国際課は『国際刑事管理官室』に名称を変更。グローバル化に舵を切った上川氏は林氏の次官就任を拒み、官邸の×印がついた」(同前)

 片や黒川氏は「自分から事務次官になりたいと言った訳ではない」と嘯(うそぶ)き、検事総長ポストにも執着していないかのような言動を繰り返してきた。