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「お姉ちゃんとの“格差”に腹が立った」

 小島容疑者は、駆けつけた警察官に対して、「新品の水筒を貰ったお姉ちゃんとの“格差”に腹が立った」と語ったという。

 この事件は父子関係に決定的な亀裂を生んだ。父親は息子を避けるようになり、小島容疑者も父親を嫌悪するようになる。

「息子が不登校で、父親との相性も悪く困っている」

 中学2年生の終わり頃、母親は、自身が勤務するNPO法人代表に相談を持ちかけている。相談を受けた三輪憲功氏が振り返る。

「うちは居場所のない人を支援する自立支援NPOで、母親から相談を受け、一朗くんをうちのシェルターで預かることになりました。彼は整理整頓が出来ないところがあったくらいで、手のかからない子でした。定時制高校に入学したのですが、成績はオール5で4年かかるところを3年で卒業したくらい優秀。他の人とトラブルを起こしたこともない。……こんな事件を起こすなんて想像もつきませんでした」

 小島容疑者は同施設から中学、定時制高校、職業訓練校に通い、5年間に渡って、集団生活を送った。NPOの施設で同じような境遇にある人に囲まれていたこのときが、もしかしたら彼が自らの“居場所”を実感できた唯一の時間だったのかもしれない。

事件直後、小田原駅に急停車した新幹線

 15年春に職業訓練校を卒業した小島容疑者は、在学中に取得した電気修理技師の資格を活かして、埼玉の機械修理会社に就職。一人暮らしを始める。

「彼は理解力が高く仕事は優秀で、人間関係も特に問題はなかった。親会社から発注される機械の修理を担当していましたが、いくつも資格を持っており的確にこなしていた印象です」(機械修理会社の社員)

社内いじめで退社、引き籠り、精神疾患……それでも両親は……

 しかし翌年、小島容疑者は退社してしまう。小島容疑者を知る人物によると、「愛媛工場に転属された後に、“お前には仕事を教えない”といった社内いじめがあったと聞いています」という。

 地元愛知県一宮市に戻った小島容疑者は市内で一人暮らしを始める。

「しかし、すぐに一朗は引き籠り状態になってしまったのです。精神疾患の持病もあったので、母親にも『責任もって面倒を見るように』と言ったのですが、両親は一朗を放置していた」(前出・親族)

 その年の10月に小島容疑者は、最初の家出をする。後に、家出の理由を「親に殺されるから」と語っていた。

「小島容疑者は自転車で長野県の諏訪を目指している途中、警察に保護されています。その後も、彼は何か気に入らないことがあると何回も家出をしては、保護をされるということを繰り返していました」(前出・社会部記者)