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息子の姓が変わることに苦悩はなかった

――相談所に預けたことは後悔していない?

「していないですね。仕事を辞めるまでは、よく頑張った。大人になった」

――施設に預けたことで、親の愛情が薄かったのではという意見もあるようだ。

「放棄と言われたら放棄だし、父親失格という表現になるのもわかる。ただ僕なりにやれることはやった」

――息子の姓が変わることに苦悩はあった?

「ないですね。ないっていったらおかしいですけど、これが最後の手段かな、と。またどこかへ行っちゃうくらいなら、同じところにいてください、と。(戸籍が変わるのは)やっぱり寂しいものはありますよ。でも彼にとって、これが最後の手段なら、難しいんですけど、単純にオッケー」

初節句のとき

「親子関係は“程度”の話」

――小島容疑者と最後に会ったのは?

「2年前の岡崎での法事のときですね。会社の給料で買った2万円の時計をしていて、『いいじゃん』って。立派になったなって。あの頃が彼のピークだったんじゃないかな」

――息子の私物とか、写真は実家にあるのか?

「今はもうない。捨てたと言ったら捨てた。(段ボールや物が積み上げられた室内を見渡しながら)見ての通りのゴミ屋敷ですので(笑)、彼の部屋は今は物置になっていて」

――相談所に預けてから、現在まで何回会った?

「法事などで4回だけかな。親子関係はない。でもそれは野球でいえば、(打率10割はありえなくて)3割50本120打点だとしても(凄い)。(親子関係も)どれくらいなのかという“程度”の話だと思う」

――母親は息子と父親との相性が悪いと話していた。

「父親のことは嫌いだったと思いますよ。でも事件前の6月8日こんなことがあった。寝ていたら『お父さん』という一朗の声が聞こえた。寂しそうで何か訴えるような声で。目を覚ましたら誰もいなかった」

「取材を受けることが僕の贖罪です」

――インタビューに応じるのはなぜか。

「取材を受けることが僕の贖罪です。親の責任として受けた」

――事件後、奥さんとは何か話をしたのか。

「取り返しのつかないことをした。そういう言葉でしかセリフが出てこない。他に当てはまる言葉がない」

 時折、笑顔を見せながらS氏は淡々と話し続けた。

 一方で、小島容疑者の母は、知人に「私は生きていていいですか……」と漏らすなど憔悴しきっているという。事件後、母は謝罪の言葉とともに次のようなコメントを発表している。

〈今回このような事件を起こしたことは、(中略)青天のへきれきで、自殺することはあってもまさか他殺するなんて思いも及びませんでした。(中略)一朗は小さい頃から発達障害があり大変育てにくい子でしたが、私なりに愛情をかけて育ててきました〉