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【追悼】横田滋さん めぐみさんが姿を消したのは、45歳の誕生日の翌日だった

取材記者が目にした“聡明ではにかみ屋”の素顔

2020/06/06
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 横田滋さんが逝かれた。1977年11月15日に、新潟市内で下校途中だった中学1年生の横田めぐみさんが北朝鮮に拉致されて42年余り。めぐみさんとの再会という悲願を叶えられずに、天国に召された滋さんの無念さは計り知れない。残念至極だ。心よりご冥福を申し上げたい。

 筆者は北朝鮮問題をライフワークとし、横田さんご夫妻が住む川崎市内の自宅マンション近くにも住んでいたことから、これまで何度も取材させていただいた。この拙稿では、取材を通して知り得た滋さんのお人柄や思いについて書かせていただきたい。

めぐみさんの写真を手に会見する横田滋さん ©getty

娘を何としても取り戻すという執念

 筆者が横田さんご夫妻を初めて単独インタビューしたのは2009年4月だった。滋さんに最初に会ったときの印象は、「聡明で優しいお方」だった。

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 滋さんが筆者に対し、拉致問題を丁寧に時系列的に説明し、分かりやすく解説してくれたことを鮮明に覚えている。

 例えば、当時は、福田政権時の2008年8月に中国・瀋陽で行われた日朝協議で拉致問題再調査に合意がなされたが、その直後に福田首相が退陣し、麻生政権に変わったタイミングだった。そして、北朝鮮は麻生政権の外交姿勢を見極めた後、日本との交渉をキャンセルしていた。

2009年4月、川崎市内の横田さんご夫妻の自宅マンションで(左端は筆者)

 滋さんは、こうした風雲急を告げる日朝交渉の細部を含め、北朝鮮情勢をめぐる国内外のニュースを丹念に追い、自ら分析・展望されていた。情報収集を万全にし、娘を何としても取り戻すという強い執念が感じられた。

※この時の取材を踏まえて、筆者はAsia Timesに記事を書いたが、すでにページへのリンクがなくなっていた。筆者の古い英語ブログに拙稿を掲載しているので、興味のある方はぜひご覧いただきたい。米中央情報局(CIA)の元東アジア部長は、この拙稿を読んで「拉致問題で私にできることはないか」と連絡をくれ、支援を申し出てくれた。
http://kosuke2009.blogspot.com/2009_04_26_archive.html

日銀職員だった滋さん

 滋さんの経歴をたどれば、その聡明さは十分に理解できるだろう。

 1932年生まれの滋さんは北海道の名門校、札幌南高校(戦前は札幌第一中学)を卒業後、日本銀行札幌支店に就職した(滋さんの父親は札幌南高校の国語教諭だった)。日銀名古屋支店勤務時代に早紀江さんと出会い、めぐみさんを授かった。そして、新潟支店に転勤後の1977年、当時13歳のめぐみさんは帰宅途中に、たまたま道端で北朝鮮の工作員と遭遇しただけで拉致された。