文春オンライン

「つ、ついに一般人に負傷者が出ました!」抗争に“狂騒”し続けるマスコミ、そしてヤクザの本音

「潜入ルポ ヤクザの修羅場」#7

2020/06/21

 新宿歌舞伎町の通称“ヤクザマンション”に事務所を構え、長年ヤクザと向き合ってきたからこそ書ける「暴力団の実像」とは―― 著作「潜入ルポ ヤクザの修羅場」(文春新書)から一部を抜粋する。

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ヤクザとマスコミの蜜月時代

 もう一度時計の針を戻そう。『実話時代』編集部に入った当時、暴力団と実話誌の関係は微妙な位置にあった。お互いがその関係性を模索していた。というのもこれ以前、頻繁に実話誌に露出していた暴力団たちが、一転して態度を変えたからだ。もっとも大きいのは、山口組がマスコミとの接触を全面的に禁止したことだった。

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 五代目体制が成立するまで、マスコミと暴力団は持ちつ持たれつで、蜜月関係を構築していた。ヤクザ渡世は人気商売で、週刊誌の記事はいい宣伝になった。名前を売り出すため、組織の認知度を広めるため、ヤクザたちはこぞって雑誌に登場し任俠道を語った。反面、マスコミがいつも自分にとって都合のいい記事を書くとは限らない。暴力団たちはマスコミを一方的に利用するのは不可能だと思い知らされただろう。実際、暴力団がもっとも頻繁にマスコミに登場したのは、山口組が分裂したさい――山一抗争当時だ。

情報戦略にマスコミを利用するヤクザ

 1984年6月、四代目の座を巡って日本最大の山口組が分裂した。離脱組は一和会という新組織を立ち上げた。このとき、マスコミはお互いの正当性を喧伝するために使われた。ヤクザ記事は、次第にマスコミを使ったスピン――情報戦略に変わっていった。山口組はマスコミを使いながら、マスコミに使われた。

©iStock.com

 後継者レースが難航すると、テレビさえ暴力団抗争をエンターテイメント番組として放送するようになった。1983年7月、田岡一雄三代目組長の三回忌法要では、早くもテレビカメラが入り込み、のちに激しい殺し合いを演じる2人の四代目候補――山本広と竹中正久(のちに四代目を襲名、一和会ヒットマンによって射殺される)の映像を撮影している。ヤクザ報道は、山口組が実際に分裂すると、一種のブームを作りあげた。実話誌にはこれ以前、大阪の博徒・松田組と山口組が対決した「大阪戦争」によって、抗争を実況中継する体制が整っていた。ヤクザ記事をメインに扱う夕刊紙も数多く創刊され、極道ジャーナリズムという言葉が生まれたのもこの時期だ。ヤクザ抗争は確実に数字のとれるネタとして確立していた。

 そのなかで日本最大の暴力団である山口組が分裂したのだから、マスコミは大喜びしたに違いない。分裂後は活字媒体のみならず、NHKをはじめ多くのテレビ局が特番を組んだ。挙げ句には出勤前のサラリーマンをターゲットにした早朝の番組や、お昼のワイドショーまでが山一抗争を追いかけたのだから、今から考えれば異常である。