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「10年役者になるのが遅かった」日活の先輩・中尾彬が語る渡哲也

 8月10日、肺炎のため78歳の生涯を閉じた俳優の渡哲也。日活の2期先輩で、NHK大河ドラマ「秀吉」でも共演した中尾彬(78)が、8月17日に「週刊文春」のインタビューに応じ、渡の若き日の秘話、役者としての魅力などについて語った。

渡哲也(右)と石原裕次郎。75年、「大都会」の新宿ロケ ©共同通信社

――1964年、「日活ニューフェイス」の2期下に渡さんが入ってこられた。

 そう、彼が新人という形で入ってきまして。その時はまだ青山学院大の学生で、空手部でしたね。半年ほどして、「あばれ騎士道」という映画で宍戸錠さんと一緒に抜擢され、その時から急にギャラが上がったんです。「おい、いくら貰ったんだ?」と聞いたら、「30万円いただきました」と。当時の30万円は大変なもん。すると彼は、「中尾さん、俺たちは10年役者になるのが遅かった」と。「今頃、何十倍でしたよ」と言うんです。映画全盛の時代でしたからね。その頃、(高橋)英樹がもうスターになっていて、彼はその次のスター候補生。空手もできたし、体格もいいからアクション路線に行きました。

中尾彬 ©文藝春秋

――当時、役者としての魅力はどうでしたか。

 いや、私が若い頃は感じませんでした。日活のアクションは演技力ではなくて、体力が勝負。哲っちゃんが出て来たときの「よし、やってやる!」という意気込みが、芝居にも現れてきたんじゃないですかね。次第に“凄さ”が出てきました。なんと言ったらいいのかな……。滅んでいく、彼の映画の中での「死に際」。(石原)裕次郎さんは死なないし、小林旭も死なない。けれど、哲っちゃんの場合は「死に際」が一番似合っていた。壮絶さがあった。彼がヒーローって言われると「ちょっと待ってくれよ」と思う。スーパーマンではないんです。もっと「老けた芝居」を見せて欲しかった。枯れた人間の芝居を期待していました。