文春オンライン

現場には一番乗り、周囲への細かい気遣い……松田優作も惚れた俳優・渡哲也の記憶

握手で受け継がれていく“石原軍団”魂

2020/08/23

 テレビドラマ『西部警察』シリーズ(’79~’84年)や映画『男たちの大和/YAMATO』(2005年)の伊藤整一役などで知られる俳優の渡哲也さんが、去る8月10日(月)に亡くなった。享年78。死因は肺炎だった。

 渡さんは青山学院大学経済学部在籍時代、日活で映画俳優デビュー。同期には女優の梶芽衣子がいる。映画『無頼』シリーズ(’67~’69年)などで名を馳せた後、’71年に日活を退社してフリーに。敬愛する日活の大先輩・石原裕次郎が興した石原プロモーションの門戸を叩いた。

渡哲也さん(昭和45年10月撮影)©文藝春秋

「活動屋魂」がテレビで『西部警察』を大ヒットさせた

 

 裕次郎さんもそうだが、渡さんも当時、斜陽を迎えた映画産業に代わり、全盛を極めつつあった“テレビ”の世界へ、映画への熱い想いを一旦圧し殺して、積極的に参加するようになった。それはもう“時代がそうさせた”としか言い様のない、致し方なき選択だったろう。

ADVERTISEMENT

 その結果、渡さんの代表作はテレビで大ヒットしたドラマ『西部警察』シリーズとその前身の『大都会』シリーズ(’76~’79年)となった。映画を愛し、映画スターの石原裕次郎を愛して石原プロに入った渡さんにとってそれは実際“不本意”なことかもしれないが、逆に“落ち目の映画ではできない、すごいことをテレビでやってやろうじゃないか”という活動屋(映画人)魂が、映画以上のスケールを誇る『西部警察』ワールドを誕生させた。

 ここで渡さんを偲ぶ意味で、筆者が取材で知った『西部警察』と『大都会』の、渡さんの撮影秘話を幾つかご紹介しよう。まずは『大都会』シリーズから。

1回のサウナに20分以上!『大都会』シリーズに懸けた熱い想い

 渡さん主演の『大都会』シリーズ第1作『大都会 -闘いの日々-』(’76年)は、石原プロ製作のテレビドラマ第1作。そして、NHKの大河ドラマ『勝海舟』(’74年)を病気降板した渡さんの本格復帰第1作目ともなった。石原プロ社長の裕次郎さんも、『勝海舟』のメインライターだった倉本聰さんも、渡さん復帰のはなむけとしてこの番組を用意した。

『大都会 -闘いの日々-』DVD BOX(ポニーキャニオン)

 同番組のプロデューサー、石野憲助さんに拠れば、裕次郎さん、倉本さんの思いやりに応えようと、渡さんの番組にかける意気込みは凄まじく、特に撮影前、撮影中の体づくり、体調管理に余念がなかったという。撮影直前まで渡さんの治療は続いており、薬の副作用でなかなか“むくみ”が取れなかった。そこで渡さんは体を絞るため毎日サウナに通った。石野さんも何回かお付き合いされたそうだが、5分ぐらいで音を上げて出てしまう自分をよそに、渡さんは20~30分経っても出て来ない。ようやく出て来たと思えば、軽く水を被ってまたサウナに……それを5、6回繰り返す姿を見て石野さんは「とても自分にはマネできない」と思ったそうだ。

 また、咳き込むことも多く、先の薬の副作用で顔が紅潮することも多々あったが、いざカメラが回った途端、顔の赤味が消え、全く咳もしなくなり、それには驚いたという。それまでにも数多くの名優たちを見てきた石野さんだったが、渡さんで初めて「これが真の役者魂というものか」と、その神髄に触れた思いがしたそうだ。