板橋区の段ボール工場で住み込みで働きました
——その後、家出同然に上京したと聞きました。
菅 とりあえず1回、東京に行けば何かいいことあるだろう、と思ったんです。でも、何にもいいことないとすぐわかった(苦笑)。一足先に上京していた中学時代の同級生が、お盆なんかに秋田に帰郷すると、「東京はこんなところだ」と話をしてくれた。それを聞いて変な憧れを持っていたのかもしれません。両親は「まあ、長男坊だからいずれ帰ってくるだろう」という感じでした。
——東京でどんな生活を?
菅 この頃のことを、私は「一番思い出したくない青春」と呼んでいるんです(笑)。板橋区の段ボール工場で住み込みで働きました。当然、朝から晩まで。10人いるかいないかの小さいところでしたね。全然知識もないのに、段ボール箱を作る工程を繰り返しやらされて、それがとにかく嫌でした。「東京ってこんなところなの?」と。中学を卒業して先に上京していた同級生達と、日曜に集まるのだけが楽しみでした。
——段ボール工場でも頭角を現しそうなタイプに見えますが。
菅 いや、こんなところに一生いるのは嫌だと数カ月で辞めるんです。大学に入らなきゃマズイと思うんですが、すぐには無理。だからまた、アルバイトばかりでふらふら、ふらふらするんです。
日劇の食堂でカレーの盛り付けをしたりNHKのガードマン、新聞社の坊やも
——2年経って、法政大学法学部政治学科に入学します。
菅 私立大学の中では法政の学費が一番安かったんです。たしか授業料は2回に分けて払いました。
——入学した1969年には東大安田講堂事件も起き、時はまさに学生運動の全盛期です。法政大学も学生運動の拠点になっていたと思いますが。
菅 うちの大学は中核派が多かったですかね。大学の授業もほとんどロックアウトの状態で、試験もなくレポート提出ばかりだった。大学に入ったら、勉強・運動・アルバイトを頑張ろうと思っていたんですが、結局勉強はしませんでした(笑)。
〈ちなみに菅氏よりも2年遅く法政大学に入ったのが、元沖縄県知事の故・翁長雄志だ。後に沖縄普天間飛行場の辺野古移設問題で対立した2人の奇縁は、既にこの時から始まっていた。〉
——「社会を変えよう」と意気込む学生運動には共感しましたか。
菅 よくこんなことやってるなという感じで、醒めてましたね。こっちはそんなこと考える余裕はないですからね。まず稼がなきゃいけないし、生活しなきゃいけない。銀座にある日劇の食堂でカレーの盛り付けをしたり、NHKでガードマンをしたり、あとは新聞社の編集部門に送られてきた記事を届ける係を何と言いましたっけ?
——坊や?
菅 そうそう、坊やをやってました。あと、自分を思い切って試してみたいと思って、空手は頑張っていました。