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source : 週刊文春WOMAN 2019夏号

genre : ライフ, ライフスタイル, 政治

「よし、政治の世界で働いてみよう」

——大学卒業後は、「建電設備」という電気会社に入社しています。帰郷せずに、就職を選んだ理由は何でしょうか。

菅 実はその頃も田舎に帰るかどうか悩んでいました。結局は「周りのみんなが就職しているから自分も」というくらいの気持ちです。でも、働くことで社会の構造が見え始めて、やっと20代半ばで「世の中を動かしているのは政治なんじゃないか」と気が付くんです。

——お父さまが町議会議員であったことも影響していますか。

菅 それは全然関係ないです。ただ上京してからはずーっと「一生は一回なんだから、自分が本当に関心を持てるところで悔いのない人生を送るべきじゃないか」と考えていました。それが「よし、政治の世界で働いてみよう」になった。「政治家になろう」じゃないですよ。とはいえ何のツテもなかったので、法政大学の就職課に行って、「先輩の政治家を紹介してください」と頼んだんです。

〈紹介された法政OBの中村梅吉の秘書を通じて、生涯の師となる横浜市選出の衆議院議員・小此木彦三郎との出会いを果たす。〉

——1975年から11年間、小此木議員の秘書を務めます。何も知らない若者が、どうやって認められる存在になっていったんでしょうか?

菅 小此木事務所には7人の秘書がいて、私はその中では一番若くて下っ端。ところが入って7~8年目のときに小此木さんが通産大臣になって、私を大臣秘書官に登用してくれました。おかげで小此木さんにお供しながら、ヨーロッパやアメリカなどを30代半ばで回れた。初めての海外でした。

 

両親に「もう少し私に預けてください。ちゃんと育てますから」と直談判された

——抜擢の理由は?

菅 理由は分からないな。ただ、小此木さんが右と言えば右、左と言えば左、という感じの秘書でした(笑)。それはもう一生懸命でアクセル踏みっぱなし。ほとんど休まなかったですよ。

——可愛がられるコツがあったんでしょうか?

菅 もちろん厳しく叱られることもありました。でも「毎朝必ずうちに来い」と自宅に呼ばれて、ご家族と一緒に朝食を食べさせてもらっていました。今思えば、やはり一番可愛がってくれたんでしょうね。

 実は秘書になってからも、いずれは秋田に戻るつもりでいました。ところが、77年の参院選で小此木さんが秋田に応援に行くことになり、突然「お前の実家に寄る」と言い出したんです。そして両親に「もう少し私に預けてください。ちゃんと育てますから」と直談判された。両親は農家を継がせるとは言わなくなりました。私自身も覚悟が決まった。

——そしてついに政治家デビューですが、38歳で横浜市会議員、47歳で衆議院議員というのは、かなりの遅咲きに見えます。

菅 いえ、私みたいなゼロから出発した人間にとっては最短だったと思いますよ。38歳。時期としては一番良かったと思います。