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「悔いがあるとすれば…」定年を迎えた高砂親方が振り返る“我が42年の相撲人生”

「悔いがあるとすれば…」定年を迎えた高砂親方が振り返る“我が42年の相撲人生”

2020/12/30
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 “大ちゃん”の愛称で親しまれた元大関朝潮の七代目高砂親方が、12月9日、65歳の誕生日を区切りに日本相撲協会の停年退職を迎えた。元関脇朝赤龍に高砂の名のバトンを渡し、今後は、錦島親方の名前を名乗り、参与の役職で協会に残るという。

 停年退職に向けて、部屋所属の呼出し利樹之丞が作詞した相撲甚句「朝潮太郎一代」に、42年あまりのその相撲人生が凝縮されている。

♪ 大関朝潮七代目高砂ヨー
  土佐の室戸は大漁か
  海に大きく育まれ
  近畿大での活躍は
  学生 アマチュア横綱と
  高砂部屋へといざ進み
  男を磨くは 猛稽古
  突き押し一気とぶちかまし
  出世街道まっしぐら
  昭和六十年春の
  第二の故郷 大阪で
  朝潮太郎は ここにあり
  抱くは天皇大賜盃
  若松 高砂 継承し
  相撲に生きる半世紀
  夢を託すは 弟子たちに
  ここに揃いし 部屋一同
  めでたく迎える六十五歳
  挙げてお祝い ヨーホホイ
  ハー 申しますヨー

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小学校卒業時には体重80キロ超

 元大関朝潮太郎――本名長岡末弘は、昭和30年12月、高知県室戸市佐喜浜町で生まれる。父は捕鯨船の砲手として長い航海に出る生活で、父と邂逅するのは年に2回だけだったという。そんな末弘少年の小学生時代は成績優秀で、いつも学年トップ。一方で小学校卒業時には、すでに体重が80キロを超える“超健康優良児”でもあった。

 当時の佐喜浜町は人口3000人の小さな町。「勉強するなら大きな町で」と、中学時代から高知市に越境入学をする。12歳にして下宿生活を送り、中学時に体重は100キロを超えたという。体が大きいことで無理矢理に相撲部に誘われたのが、相撲を始めるきっかけとなる。「お尻を出すのが嫌でしょうがなかったんだ」と言い、この頃から今なお愛称とされる“大ちゃん”と呼ばれるようになった。

愛弟子の朝乃山と

 高校時代はアパートでの一人暮らしを経験し、相撲部に所属をするものの、けして強豪校ではなく「気楽な相撲部時代だった」と親方本人が振り返る。それでも近畿大学相撲部に「強かったヤツのオマケとしてスカウトされたんだよ」と笑いながら、当時の想い出を語る。

2年連続で学生横綱になるも「まだ相撲を好きにはなれなかった」

「私がまだ1年生だった頃です。同じ近大相撲部出身で、力道山とタッグを組んでいた元プロレスラーの吉村道明さんが、当時は50歳くらいだったかな。相撲部のコーチをしていてね。『そこのポチャポチャした兄ちゃん、来なさい』と、吉村さんと相撲を取ったんです。私が勝つと、吉村さんは『これからが真剣勝負だ』と言い、また私が勝つと、今度は『もうまわしを締めるのはやめた』と突然言い出し、それでコーチも辞めてしまった。私のようなひよっこに負けて、先輩もショックだったんだと思います」

 のちに近大では、その吉村道明以来、27年ぶりの学生横綱となったのが、親方――長岡末弘だった。3年次、4年次と連続で学生横綱、アマチュア横綱に輝くのだ。

「それでもまだ相撲を好きにはなれなかったんです。やらざるを得ないな、との思いだけでした。将来は教師になろうと教職課程を取っていたんですが、相撲部のスケジュールが忙しくて最後の教育実習に行かせてもらえなかったんですよ」