文春オンライン

《追悼》「背中に火がついてるぞ!」東京大空襲の夜、14歳の半藤一利は火の海を逃げまどった

“半藤少年”の「戦争体験」 #2

2021/01/13
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 昭和史研究の第一人者であり、『日本のいちばん長い日』や『ノモンハンの夏』などの著作でも知られる作家の半藤一利さんが、1月12日、東京都世田谷区の自宅で亡くなりました。90歳でした。

 

「文春オンライン」では、戦後74年を迎えた2019年夏に、半藤さんの“原点”に迫るインタビューを行っていました。少年時代に東京大空襲を経験し、火の海となった町を前に、半藤さんは何を思ったのか――。当時の記事を再公開します。(初公開:2019年8月15日。記事中の肩書・年齢等は掲載時のまま)

 映画化もされたベストセラー『日本のいちばん長い日』をはじめ、『ノモンハンの夏』『昭和史』など、数多くの著作がある半藤一利氏は、今年初めて絵本を刊行した。『焼けあとのちかい』と題されたその絵本には、“半藤少年”が体験した東京大空襲の壮絶な光景が描かれている。半藤氏は今、子どもたちに何を伝えようとしているのか? 

 第1回で「太平洋戦争の開戦に高揚感を覚えた」と語った半藤氏。だがその数年後には、徐々に日本人全体が殺気立つ空気を感じ始めたという――。

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取材・構成=稲泉連

 (全3回の2回目/#3へ続く)

◆◆◆

 私が中学校に入ったのは昭和18(1943)年4月のことでした。日米開戦から1年半ほどが過ぎていましたが、この年は私にとって「戦争」を身近に感じるような厳しい時期ではありませんでした。

 というのも、日本が約2万人に近い戦死者を出したガダルカナル島の争奪戦に敗れたのが、同じ年の2月。日米双方がこの戦闘では戦力が疲弊し、多くの戦闘機や軍艦を失いました。さすがのアメリカも本土で戦力を養う必要があり、昭和18年は翌年に日本にやってくることになる大機動部隊を整備している時期だったからです。もちろん山本五十六の戦死やアッツ島での玉砕など、戦争はそのときも続いています。しかし、まだ東京にいる限りでは、のんびりした日々が続いていた印象があります。

 

中学校で盛んになった軍事教練

 ただ、それまでは上げ潮だった戦争が、これからは引き潮の戦争になる。だから、日本も全力を挙げて軍備を整えないと、とても対抗できないぞ、ということは分かっていました。よって、この頃から私の通っていた都立第七中学校(現・墨田川高校)でも、ずいぶんと軍事教練が盛んになっていったものです。

 木銃を「わー」と声をあげて刺しっこしたり、モールス信号や手旗信号を習ったり。身体を鍛えるためのマラソン大会もその一部でしたね。これは各学校の校長の方針だったらしいのですが、英語を中止した学校もこの頃にはあった。七中は軍事教練が盛んだったとはいえ、英語はまだちゃんと教えていましたけれど。

 

マリアナ諸島をめぐる攻防戦が始まる

 そうしたのんびりした雰囲気がガラガラと音を立てて変わったのは、年が明けた昭和19年のことでした。アメリカの大機動部隊が太平洋の日本の占領地を次々に襲ってきたのです。

 昭和19年6月から7月にかけて、マリアナ諸島をめぐる攻防戦が始まります。

 サイパン島、テニアン島、グァム島――というマリアナ諸島は絶対国防圏と呼ばれ、日本が引いた最後の防衛線のうちの、最大最強の砦でした。なぜなら、マリアナ諸島が奪われて長距離爆撃機B29の基地ができると、日本への本土空襲が可能になるからです。

 この頃からです、日本の政府も軍部も躍起になったのは。例えば、「鬼畜米英」や「米鬼」という言葉がありますが、そのような言葉が新聞などで書かれるようになったのも同じ時期のことでした。