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97歳の女流作家、佐藤愛子が語る「苦しまずに死を迎える」よりも大切な生き方とは

『老い力』より

2021/02/01

source : 文春文庫

genre : ライフ, ライフスタイル, ヘルス, 読書

note

 いつまでも若く元気に、美しく!? そんなことを言ったって、老衰、病苦、そして死は必ずやってくる。ならば現実を静かに受け入れ、ジタバタせずに人生を全うした方がよくはないか―

 軽妙洒脱なエッセイが人気の作家佐藤愛子さんが、辿り着いた「老い」についての考えとは。ここでは、著書『老い力』(文春文庫)を引用し、最期に向かう心構えの一つの在り方を紹介する。

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「死に際」よりも「死後」が大事

 人は死ぬと無になると、今の日本人の半数以上の人が考えているようだ。その人たちから見ると、死後の世界があると信じている人は単純素朴もいいところ、無智無教養のように見えるらしい。そういう私もかつては漠然とだが死後は無になると思っていた。そう思うのが一番簡単だったからである。ひたすら生きることに忙しく、そんな先のことについては考えていられない―そういう気持だったのだ。

佐藤愛子さん  ©文藝春秋

 19年前、私は北海道の浦河町の丘の上に避暑のための家を建てた。そうしてその時から私は人の死後について考えないわけにはいかない体験をするようになった。気のせいだ、錯覚だと思い決めようとしても、これでもかこれでもか、といわんばかりの超常現象に見舞われると、無視しているわけにはいかなくなる。

 人間は霊媒体質(霊的エネルギーを持っている)の人とそうでない人に分かれるという。例えば幽霊が出るといわれている家へ5人の人が探検に出かけたとする。

 その時5人が5人ともに霊媒体質でない人たちであれば、怪しい現象は何も起らない(一説には霊は霊媒体質の人のエネルギーを取って現象を起すのだという)。そこで幽霊屋敷だなどというのはだ、あそこで幽霊を見たなどといい出した人は、臆病のせいで枯薄が幽霊に見えるたぐいだ―と決めつけられる。5人が5人とも霊媒体質であれば、異議なく、

「出ましたねえ」

 と頷き合って問題はないのだが。

 世の中には霊媒体質を認める人は少ないから多勢に無勢。簡単に「変ってる」あるいは「うさん臭い奴」ということにされる。もっとひどいと「アタマがおかしい」と心配されることもある。

「見える人」は常に孤独なのである。

目に見えて起こる超常現象

 浦河の丘の上の家が建ち上り、家財道具を納めて間もないある夜、水道の口もない場所で水が流れ出る音がしたり、砂利道などないのに家の外で砂利の上を歩き廻る音が聞えたことからそれは始まった。しかしその時は、誰もがそうであるように、私たちは「空耳」「気のせい」でことをすませていた。ほかにも異常が起っていたのだろうが多分、気がつかなかったのだろう。

©iStock.com

 次の年から目に見えて超常現象が起るようになった。

 東京から送った書籍の段ボール8個を玄関に積んでおいたのが、そのうち1個だけ忽然と消えていたり(私の家へ来るには700メートルの坂道を上らなければならないので、よほど暇な人でない限り車を使う。もし泥棒ならばどうせ車で来た以上は2、3個は持って行くだろう)夜になると屋根の上をゆっくり人が歩く音がしたり、つけておいた電燈が消えていたり、かと思うとつけた覚えもないのについていたり、これでもか、これでもわからんか、というようにつづけざまに異常が起きるともう錯覚だなどとはいっていられなくなった。