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投げた瞬間「バキッ!」 肘の骨に穴が開いた藤川球児(40)が決意した引退“以外”の思いとは

『火の玉ストレート プロフェッショナルの覚悟』より #2

2021/02/08
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 2020年のシーズン終了後に引退した藤川球児氏だが、その前年には、肩と肘が限界に達していて痛み止めの注射なしには投げられない状態にあり、引退の意思を球団に伝えていたという。そんな中でも好成績を残した2019年。そして2020年もマウンドに上がった。

 できるだけ多くのファンに最後のボールを見届けてもらいたい。その一心で己の体を酷使し続けた伝説のクローザーは、当時どのようなことを考えていたのだろう。藤川球児氏が現役時代を振り返った書籍『火の玉ストレート プロフェッショナルの覚悟 』(日本実業出版社)の一部を抜粋し、紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)

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最高のボールを投げ続けるだけ

 4月後半、僕は1軍に戻った。このときの僕は、すでに引退の意思を球団側に伝えていたからか、自分でも意外なほどに落ち着いていた。達観してしまった、といっていいのかもしれない。

 焦りもなければ気負いもなく、現状における最高のボールを投げ続けるだけだと思っていた。打ち込まれたら、それまでである。球団側からは慰留されていたものの、一度でも無様に打ち込まれたら、僕はすっぱりとやめるつもりでいた。

 ところが、皮肉なことに、打ち込まれることがなかった。

 1軍に戻ってから無失点で切り抜けていた僕は、6月中旬にかけて18試合連続無失点という記録を残している。しかも、その試合で僕の通算ホールド数が150に達して、すでに達成していた150セーブとの両方を記録した日本球界で最初の選手になった。

©文藝春秋

 7月には、僕にとって最後の出場となったオールスター戦でも登板した。打者3人に対して投げた12球は、もちろんすべてストレートだった。そして、いずれも凡打に打ち取った。

 その日、オールスター戦の舞台となった甲子園では、雨が降っていた。マウンドに立った僕が、すでにそのとき引退を決意していたとは、ファンのみなさんも選手たちも、ほとんどの方が想像していなかったと思う。雨と大歓声を全身に浴びながら、僕の気持ちは複雑だった。

いつやめることになっても、後悔はしない

 シーズンの後半は、チーム事情もあって、僕は中継ぎから抑えに転じた。8月末の対巨人戦では、当時の現役選手としては最多となる通算235セーブを記録した。

 そのままシーズンが終わるまで抑えを任され、結局、そのシーズンは56試合に登板して、4勝1敗16セーブ23ホールドという好成績だった。しかも、防御率は1.77で、阪神に復帰して以降、はじめての1点台だった。