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2000票差で初当選…1996年の国政選挙で繰り広げられていた“菅義偉”と“創価学会”の激突とは

『菅義偉の正体』より #1

2021/02/28
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「私は雪深い秋田の農家に生まれ、地縁血縁のない横浜で、まさにゼロからのスタートで政治の世界に飛び込みました」と語った所信表明演説で庶民派なイメージを振りまき、多くの国民から支持された菅義偉首相。しかし、その支持率は首相就任から日が経つにつれて下降の一途をたどっているのが現状だ。

 ここでは、ノンフィクション作家、森功氏の著書『菅義偉の正体』(小学館新書)を引用。菅義偉氏の本当の姿に迫るべく、国政選挙初参戦時の印象的なエピソードを紹介する。(第2回の1回目/後編 を読む)

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最初の国政選挙

 菅義偉は、衆院に小選挙区制度が導入されて初めての総選挙となった96年10月、神奈川2区から出馬して初当選を果たした。

©iStock.com

「もともと神奈川の衆院選挙事情からすると、菅さんが立候補できる余地はほとんどなかった。選挙法が改正され、小選挙区制が敷かれたからこそ、国政に打って出る芽が出てきたんです。そのへんも運の強い人だよ。小此木さんは中選挙区時代、ずっと旧1区で当選を重ねてきました。旧1区にはもう一人、文部大臣になった鈴木恒夫さんがいて、二人で目いっぱい。小此木さんは旧1区で息子の八郎にあとを譲ろうとしていたから、仮に中選挙区のままだったなら、菅さんは出られなかった」

小此木八郎氏 ©JMPA

 藤代が横浜の選挙事情を詳しく解説してくれた。小此木八郎は93年7月におこなわれた衆院選で、中選挙区時代の旧神奈川1区から出馬し、菅より一足先に当選した。八郎の選挙で菅は選挙事務所の事務長として奔走し、次に備えたと藤代が話す。

「小選挙区制になり、平成8(96)年の選挙で、横浜は1区から8区までに区割りされた。すると、基本的にどこでも出られる。自分にとって、どこがいいか、判断するだけです。それで、菅さんが手をあげた。八ちゃん(小此木八郎)が、神奈川区と鶴見区の3区をとったから、菅さんは2区を選んだ。1区は大蔵事務次官から代議士になった佐藤一郎の長男、佐藤謙一郎が強かったから、菅さんは2区を選んだのだと思います。その棲み分けについては、当人の希望に沿いながら市連で話し合われたはずです」

“菅軍団”という人的ネットワーク

 影の市長と呼ばれるだけあって、菅は希望を通しやすかったのかもしれない。もともと菅の立候補した衆院の神奈川2区は、市議時代の選挙区だった西区が含まれる。菅が2区を選んだ理由は、市議時代と同じくここに相鉄グループの本社があるからだろう。もっとも衆院になると、選挙区は南区、港南区が加わりかなり広くもなった。市議時代は西区だけをカバーすればよかったが、そうもいかない。やはり衆院選では苦労もあったようだ。

 地元横浜には、菅軍団と呼ばれる市議や県議たちがいる。多くは菅事務所の秘書から政治家に転身している。たいていは菅が衆院選に初めて出馬したころから付き合ってきた。地元における菅の強みは、そうした人的なネットワークを張り巡らせていることである。

 菅事務所の秘書から神奈川県議になった横浜出身の加藤元弥もその一人だ。山梨学院大学を卒業後、地元の広告代理店に勤めているときから、菅の選挙を手伝うようになった。