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「妻を知りませんか?」10年前の被災地で、私は初対面の男性に声をかけられた

10年目の東日本大震災 #2

2021/03/11

genre : ニュース, 社会

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 東日本大震災の翌週、私は岩手県釜石市に住む友人に届けようと、岐阜から食料を持って車を走らせたものの、「これは受け取れない。被害が甚大な沿岸部の人たちに届けてほしい」と断られた。その後避難所を転々とするが、どこも多くの物資があり、渡せないまま夜を迎えてしまった。

 石巻市内にいた私は、車内で仮眠をとり、朝を迎えた。翌日は仕事があるため、今日中に岐阜に戻らなければならない。物資を渡せなければ、友人の気持ちも無駄にしてしまう。私はこれまでに現地で聞いた話を踏まえ、報道で目にする大きな街を避け、小さな港町を訪れることにした。石巻市街を離れ、牡鹿半島の先端に向かった。(全2回の2回目/前編から続く

道路の両脇に瓦礫が寄せられ、かろうじて通行できるようになっている(宮城県石巻市、2011年3月20日撮影)

「それは、いただくことは出来ないですか?」

 車から見える小さな港町も、ことごとく壊滅していた。家は土台ごとなくなり、漁船は沖に流されてしまっている。

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 ある漁港に立ち寄ると、近所の方々が集まり、漂着物をすくい上げていた。その中に使えそうな物がないか、探しているところだった。漁港のすぐ近くに小さな避難所があったので声をかけると、物資を受け取っていただくことができた。多くの人が出てきて、運ぶのを手伝ってくれた。銘柄が入り混じった袋麺も、快く受け取っていただけた。

 その際、自分用に用意していた菓子パンと、長靴に履き替えるために脱いだスニーカーを指差し「それは、いただくことは出来ないですか?」と聞かれた。こんなことなら、もっとたくさん食料を持ってくればよかった、新品の靴を用意しておけばよかったと、申し訳ない気持ちになった。

家の土台がなくなり、2階部分のみが残っている(宮城県石巻市、2011年3月20日撮影)
沖に流されてしまった漁船(宮城県石巻市、2011年3月20日撮影)
近所の方々が漂着物をすくい上げていた(宮城県石巻市、2011年3月20日撮影)

 しかし、話はそれで終わらなかった。「ここには数十人しかいないが、この先にある小学校には100人ぐらいいる。半分はそちらに持って行ってあげてくれないか」

車に載せていた物資は全て渡せたが……

 車で少し走ると、坂の上に小学校があるのが見えた。校庭に乗り入れ、先ほどの避難所での内容を伝えると、多くの方が出てきた。たった50食ほどの袋麺とわずかな生活物資を、リレー方式で運んでくれた。

 車に満載していた物資がようやく全て無くなった。友人の思いを無駄にしなくて済んだ――。肩の荷が下りてホッとしていたその時、荷物を運んでくれた男性が、申し訳なさそうに切り出した。「その……ガソリンは難しいですか?」

電柱は傾き、信号は消えている(宮城県石巻市、2011年3月20日撮影)

 物資を運び出した車には、大量のガソリン携行缶が残っていた。岐阜から東北まで、往復に必要なガソリンを積むために、親戚や友人、近所の人から借りまくってきたものだ。私は帰りの距離とガソリンの残量をみて計算した。

「少しで申し訳ないんですが、20リットルほどでよろしければ……」