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死刑執行日に出す予定だった妻への手紙に「これからもよろしく」と 地下鉄サリン事件犯たちの“最後の言葉”

『死刑囚200人 最後の言葉』より #1

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 1995年3月20日、東京都心を走る地下鉄の車内に有機リン化合物の神経ガス「サリン」が散布され、死亡者8人を含む約600名もの人々が被害を受けた。事件から2日後、警視庁はオウム真理教に対する一斉捜査を実施し、事件に関与した信者を次々と逮捕。日本中を震撼させた事件に携わった犯人たちには厳しい処罰が下された。

 ここでは別冊宝島編集部による書籍『死刑囚200人 最後の言葉』(宝島社)を引用し、オウム死刑囚たちの最後の様子をまとめて紹介する。大罪を犯した死刑囚たちは、最終的にどのような覚悟で刑に臨んだのか。彼ら一人ひとりの事件への向き合い方を見ていこう。(全2回の1回目/後編を読む)

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「教祖」執行前の最後の一問一答

 まずは、麻原彰晃(享年63)である。

 いつものように朝食を終えた麻原は、朝7時40分ごろに突然、出房を命じられる。麻原は抵抗することもなく刑場に連行されたという。

 7時50分過ぎ、死刑の執行が告げられる。

「お別れの日が来ました。教誨はどうしますか」

 一応、宗教家を自称していた麻原に「教誨」とは皮肉なことこの上ないが、麻原は無言だったという。

「じゃあやらないんだね。言い残したことはある?」

「……」

「遺体の引き取りはどうする?」

「……」

 何も答えない麻原に刑務官が問いかけた。

「誰でもいいんだぞ。妻とか、次女、三女、四女……」

 するとここで麻原が反応した。

「ちょっと待って」

 麻原は少し考え、こうつぶやいた。

「四女」

 刑務官が念を押して確認した。

「四女だな」

 すると麻原は「グフッ」といった声を出したが、その後遺言のようなものはなく、淡々と死刑が執行されたという。

©iStock.com

 だが、麻原が「四女」を指定したという話を信じられないという人間もいる。2008年以降、親族、弁護士を含め誰も面会できない状態だった麻原の精神状態は誰にも分からず、本当にそのようなコミュニケーションが取れる状態だったのか、確かに疑わしい部分はある。麻原の遺骨は引き取りをめぐって紛糾し、いまも東京拘置所に保管されている。

「私の名を呼びながら刑に臨んだそうです」

 麻原のあとに続けて執行されたのは、土谷正実(享年53)だった。筑波大の大学院で化学を専攻した土谷はサリン製造の中心的人物であったが、麻原への信仰心はまったく消え去っていたという。

 2008年に土谷と獄中結婚し、面会を重ねていた夫人が『週刊新潮』(2019年7月1日号)で次のように語っている。「(執行の告知は)いきなりでビックリはしていたそうですが、事を理解すると“今日がそうなのか”と大人しく刑場に向かっていったそうです。唯一、悔やまれることがあるとすれば、あの日、東京拘置所での執行が麻原と一緒になってしまったこと。荼毘に付されたところまで一緒でした。あれだけ憎んでいた麻原と最期まで同じだったとは……。執行を受け入れていたと思いますが、それだけは心残りだったのではないでしょうか。最期は、私の名を呼びながら刑に臨んだそうです」

 そしてこの日、3番目に執行されたのは遠藤誠一(享年58)だった。京大大学院で学んだエリートの遠藤は、教団で違法薬物やサリン製造に従事した。

 遠藤の執行前の様子や遺言は報道されていない。だが、遠藤の遺体は3名の死刑囚のなかで唯一、後継団体のアレフに引き取られている。その後、火葬された遠藤の遺骨は、故郷の北海道・小樽の海に散骨された。