食は人の営みを支えるものであり、文化であり、そして何よりも歓びに満ちたものです。そこで食の達人に、「お取り寄せ」をテーマに、その愉しみや商品との出会いについて、綴っていただきました。第18回はフードパブリシストの高橋綾子さんです。
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私は無類の栗好きである。
栗と名のつくものにはつい手が出てしまう。焼く、蒸す、煮る、何でもござれだ。故に美味しいものに出逢える事もあれば、その逆もあり、当然美味しかったものは“マイ黒革の手帖”と呼ぶ保存ファイルに残してある。
モンブラン、甘露煮、羊羹、甘栗、焼栗……、しかし渋皮煮だけは保存されていなかったのである。
渋皮煮との初めての出逢いは高校1年生。歳をとり弱ってきた祖母が最後かもしれないと東京の私の実家に遊びに来て、どうしてだか記憶にないのだが渋皮煮を作ってくれたのだった。「お、お、美味しい……」、なんなんだ、これは! ほんのりと上品な甘さにしっとりとした食感、栗ご飯や甘栗のホクホクした栗しか食べたことがなく、ましてや渋皮なんて食べるもんじゃないと思っていた私には衝撃的だったのを覚えている。そして言葉通り祖母はもう東京に来ることはなく他界したのだが、私にとって渋皮煮は祖母の味となった。たったの1度しか食べられなかったけれど今でもいちばんだと思っている。
母は料理上手ではあるが面倒なことは嫌いなので、せがんではみたものの作ってくれたことは1度もなかった。ま、代々伝わる味じゃなかったってことなのだろうが、私の中では渋皮煮は“あったら買う”リストに追加され、かなりの数を食べてきたと思う。しかしなかなか祖母の味に辿り着けず、今まで“マイ黒革の手帳”に保存されることはなかった。
ないなら作れば良いじゃないかと悪魔の声が聞こえるし、周りの料理上手な皆々さまにも「簡単よ〜」と言われるけれど、渋皮煮に関しては手間がかかるのでまったく作る気がしない。そこは母のDNAを受け継いでしまったのかもしれない。だいたい栗は皮が固すぎる。ひとつ剥くのに一苦労、手を切ってしまうこともあるわけで、渋皮を薄く残すなんておよそできると思えない。そもそも“はじめの一歩”でやる気ゼロなのだ。