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標高約200メートルの山上に建つ天守…毛利一族の一翼を担った“美しい堅城”岩国城

2021/06/30
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 岩国城は、関ヶ原合戦後に岩国3万石を拝領した吉川広家により築かれた城です。関ヶ原の戦い直後の不安定な情勢下にあり、軍事性を考慮して標高約200メートルの山上に城を構え、山麓に「御土居」と呼ばれる居館を置いて藩政の中心地としていました。

 城と居館を三方から囲み天然の堀となっていたのが、県下最大の錦川です。岩国城の外堀の一部であると同時に城と城下町を隔てる境界線でもあり、錦川を境に、城側には諸役所や上級武士の居住区、外側には中下級武士の屋敷や町人地が広がっていました。

錦川から見上げる、錦帯橋と岩国城

 山頂に建つ岩国城の天守とセットで岩国のシンボルとなっているのが、錦帯橋です。日本三名橋のひとつに数えられるしなやかな曲線を描く木造アーチ橋で、3代藩主の吉川広嘉が架橋しました。

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 一度は流失しながらも、改良を加えて延宝2年(1674)に完成。昭和25年(1950)まで276年間その威容を保ちました。錦帯橋という名は、安永年間(1772~1781)頃についたといわれます。

山上に城、山麓に居館を構えていた
山頂から見下ろす、山麓の居館跡と城下町

天守が美しく見える秘密

 錦川沿いから錦帯橋を見上げると、背景に岩国城の天守が見えます。ちょうどよいところに建っていて感激しますが、実は演出のひとつ。昭和37年(1962)に天守が復興される際、山麓から見上げたときに錦帯橋とセットで美観が完成するよう、本来あった場所から50メートルほど南側に建てられました。

南蛮造の天守

 もともと天守が建っていた場所には、天守台が復元されています。天守は、古絵図を元に再建。三重目が下層の屋根より張り出した、珍しい「南蛮造」の天守です。