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《暴力団と交流もあったが…》『仁義なき戦い』で名を上げた菅原文太がヤクザ映画への出演を辞退するようになったワケ

『仁義なき戦い 菅原文太伝』より #2

2021/08/03
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「男が惚れる男」として、東映を代表する名俳優だった菅原文太氏。意外と知られていない彼の意外な素顔とは……。

 ここでは、松田優作氏の元妻で、現在は作家として活躍する松田美智子氏の著書『仁義なき戦い 菅原文太伝』(新潮社)の一部を抜粋。膨大な資料と関係者の貴重な証言を重ね合わせ、菅原文太の姿に迫る。(全2回の2回目/前編を読む)

©文藝春秋

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子供のために

 文太は住吉会とも交流があった。後年、住吉会会長の娘の結婚式に夫婦で出席した姿が撮影されている。このとき参列者として名前が挙がったのは、吉幾三、木梨憲武、内田裕也など。暴力団との交流は芸能人だけでなく、プロ野球、大相撲、プロレス、ボクシングなどスポーツ界にも広がっていて、その関係は、避けては通れない必要悪のようなものだった。

 ただし、「山一抗争」が勃発した84年あたりから、文太はヤクザ映画の出演を辞退するようになり、東映ではなく、東宝映画の出演本数を増やしていった。

 85年から89年までの5年間に文太が出演した東宝作品は、85年『ビルマの竪琴』(監督・市川崑)、86年『鹿鳴館』(同)、87年『映画女優』(同)、『黒いドレスの女』(監督・崔洋一)、88年『つる 鶴』(監督・市川崑)、89年『YAWARA!』(監督・吉田一夫)、『マイフェニックス』(監督・西河克己)、『開港風雲録 YOUNG JAPAN』(監督・大山勝美)の8作で、主演作品はなく、どれも助演クラスの出演である。

 社会問題になった抗争も影響していただろうが、文太がヤクザ映画から遠ざかった理由のひとつに、自身の子供たちへの配慮があったように思える。

 長男の薫が中学のとき、イジメにあっていることを聞いた文太は、菅田俊(編集部注:当時、宇梶剛士らと共に菅原文太の付き人を務めていた)に頼んだ。

「オヤジから『子供同士の喧嘩なので、親が出るほどのことではないが、事情を知りたいから、調べてみてくれ』と言われて、宇梶(剛士)と一緒に薫が通っていた学校へ行きました」

 薫は文太のサインや物品を持ってくるよう、脅されていたという。菅田が調べたところ、脅した生徒の背後には、ヤクザと関係がある19歳の暴走族の頭がいることが分かった。

「薫だけじゃなくて、同級生も脅されていたので、そいつをさらいに行ったんです。逃げ回るのを追いかけてなんとか捕まえ、家に連れて行きました」

 菅田俊と宇梶剛士という強面の2人がいきなり現れ、19歳の暴走族はさぞ驚いたことだろう。彼は文太に説教され「雷おやじの会」の本を貰って帰ったという。