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2021/08/30

自分の存在自体が「消費」されていくあり方に決別

『ぼくらの七日間戦争』に起用した監督の菅原浩志は、その変化をこう捉えている。

「スターは常に光を浴びる。その光が強ければ強いほど、濃い影が出るものです。人気がなくなれば手のひらを返され、周囲から人が去っていく。それをりえも体験したと思う。アメリカのショービジネスの世界には、『泳げ、さもなくば、沈む』という言葉がありますが、りえは本当に辛かった時も、必死に泳いでいたんだと思う。そういった経験を経て、表面的なものや話題性を追うのではなく、本質的にいいと思える仕事をしていきたいと考えたんじゃないでしょうか」

 平成21(2009)年、野田作・演出の『パイパー』に出演中、妊娠と結婚が報じられた。35歳での結婚相手はハワイで知り合った一般人の日本人男性だった。

 光子は孫娘の誕生は手放しで喜んだものの、この結婚には一貫して反対していたという。光子への反発から選んだ相手であったのかもしれない。光子とりえは以前のような「一卵性親子」ではなくなり、少し距離を置くようになっていた。

 光子にも反対された、この結婚は長くは続かず、3年後には早くも不仲説が流れるようになり、長い離婚協議を経て、りえが親権を取って離婚が成立した。

 その間も、蜷川、野田といった演出家に重用され、平成26(2014)年には7年ぶりに映画『紙の月』に主演。東京国際映画祭で最優秀女優賞を受賞する。

映画『紙の月』(DVD)

 かつては彼女の婚約も、恋愛も、仕事もすべてが「話題」として消費された。歌や演技ではなく、彼女自身が商品だった。自分の存在自体が消費されていった。

 だが、彼女はそうしたあり方に自ら決別をしたのである。別の見方をすれば、あまりにも突出し、存在そのものが特別だった「宮沢りえ」を放棄した、ともいえるだろう。

 篠山紀信が言う。

「野田秀樹の舞台稽古でのりえがあまりにも素晴らしかったので楽屋に顔を出した。りえは放心状態でひとりボーッとしていた。僕が『すばらしかったよ』と興奮して告げても、彼女は喜ばず、『本当に?』とこちらを疑うように見つめた。僕は少し驚いて、『何言ってるんだ。最高だよ、りえ』と言い続けた。そしたら突然、駆け寄ってきて僕に抱きついたんだ。その時、思った。この子はこんなにも大きな不安を抱えながら、舞台に挑み続けているんだと」

母・光子の死後、V6の森田剛と再婚

 りえと距離を保つようになった光子はパリと日本を行き来して、ひとり暮らしを楽しんでいた。

 だが、体調を崩し診察を受け、余命を宣告される。日本で自宅療養をしながら、平成26年、肝腫瘍で旅立った。65歳の早すぎる死。それでも宮沢家の女性たちのなかでは最も長命であるという。光子の母も、姉のさつ子も短命だった。また、3人とも離婚を経験し苦労した。宮沢家の女性には、平穏には生きられない、あらぶる血が流れているのかもしれない。

 母の死後、りえは舞台で共演したV6の森田剛と平成30(2018)年に再婚する。娘を連れて公園を散策し、気軽な店で食事をする姿がよく目撃されている。

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