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「オレはミスターのために死ねる」一茂が読み上げた長嶋“五輪断念”メッセージ…《後遺症で“揺れる”サインペンの文字》

文藝春秋「長嶋茂雄と五輪の真実」#2

2021/08/07

 東京オリンピック・野球で日本代表“侍ジャパン”は準決勝で韓国に5対2で勝利。8月7日夜の決勝でアメリカを相手に初の金メダルを目指す。2004年、アテネ五輪野球の日本代表監督をつとめた長嶋茂雄さん(85)は、コロナ下での開催に心を痛めながらも、参加するアスリートたちに寄り添って「まず優勝して欲しい! とにかく金メダルを取って欲しい!! その金メダルの鍵となるのは、“日本野球の素晴らしさ”を世界に誇ることだと思います」と「文藝春秋」に激励のメッセージを寄せた。

 長嶋さんの緊急入院からアテネ大会の銅メダルに至るまでを取材した、ジャーナリスト・鷲田康氏による「長嶋茂雄と五輪の真実」第2回(「文藝春秋」2021年6月号)を転載する。(全2回の1回目/前編から続く)

長嶋茂雄さん ©文藝春秋

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一茂は静かに長嶋からのメッセージを読み上げた

 本大会まで1か月と迫った7月20日、日本オリンピック委員会(JOC)は、アテネ五輪の大会組織委員会に日本選手団の名簿を提出。長嶋も野球競技の監督として、正式なオリンピアンとして五輪名簿に登録されることになった。ただ、懸命にリハビリを進めてはいたが、この頃には長嶋がアテネでチームの指揮を執ることは、現実的には困難であることは関係者の間では既成事実となってもいた。あとはどのタイミングで発表するかだけだったのである。

 8月1日付の一部スポーツ紙が、長嶋が五輪で指揮を執ることを断念したことを報じた。翌2日には一茂が会見して正式にアテネ行きを断念したことが発表された。7月中旬に担当医からは飛行機移動での気圧の変化と現地での医療体制への不安からドクターストップがかかり、正式にチームに同行してアテネに行くことは断念したと、理由が説明された。

「アテネで指揮を執ることを目標にここまでリハビリを続けてきましたが、信頼する医師によるドクターストップだから受け入れざるを得ません。私自身としても非常に残念だが、仕方ありません」

 一茂は静かに長嶋からのメッセージを読み上げた。

 このときの心境を宮本はこう振り返っている。

「早い段階から難しいという情報も入っていましたし、予想していました。だから驚きはなかったですね。どちらかというと『ああ、やっぱり……』という感じでした。でも長嶋さんが来ないことが決まって、逆により一層、長嶋さんのためにも金メダルをとって帰ってこなければならない責任というか、使命感みたいなものを持ったのも確かです」

 その思いは宮本だけではなかった。

「長嶋さんは雲の上の人で憧れ。予想はしていましたけど、本当にアテネに来られないということを聞いたときは、やはり少し落胆した気持ちになりました。でも、アジア予選を勝った後に、長嶋さんが『伝道師になれ』というお話をされたのを思い出しました。そのためにも日本で待っている長嶋さんのところに金メダルを届けなければならないという思いがより強くなったと思います」

 こう語るのはアジア予選から代表チームの一員として支えてきた西武の和田一浩だった。

「オレはミスターのために死ねる」

中畑清 ©JMPA

 長嶋の不参加が発表された直後、中畑は長船からこう言われている。

「キミを監督代行とも言えない状況だけど、アテネに行って指揮だけは執ってくれ」

 監督はもちろん代行の肩書きもつけられないが、すべての責任は引き受けてくれということだった。

「オレはミスターのために死ねるし、ミスターの日の丸への想いも分かっていた。監督代行の肩書きすらつけられない状況で責任だけをとるとなれば、もうオレしか引き受ける人間はいない。ただ、長嶋ジャパンを守っていくにはこの形しかないだろうなとも思った。正直、オレにできるかどうかは分からなかった。ホントに何の自信もないし、不安だらけのスタートだった」