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2021/08/07

「生え抜きの有名選手でもない」木村拓也の涙

 一行は成田から約12時間のフライトで経由地のミラノに到着。そこからバスで直前キャンプ地のパルマに入ったのは現地時間8月5日(日本時間同6日)の午後だった。

 時差ボケ解消のため翌6日の練習は、午後4時から報道陣には非公開でサインプレーの確認などを行った。

 軽く体をほぐす程度の予定だったが、そこでアクシデントが起きた。

 木村拓也が左太もも裏の肉離れを起こしたのである。

木村拓也 ©共同通信社

 1990年のドラフト外で日本ハムに捕手として入団した木村は、92年に外野手に転向。94年に広島にトレードで移籍すると、今度は内野手として活躍の場を求め、96年オフからはスイッチヒッターにも挑戦し、00年には136試合に出場。同年から2年連続でオールスターゲームにも出場している。

 この木村をユーティリティープレーヤーとして、高く評価したのが長嶋だった。五輪ではベンチ入り選手の数もレギュラーシーズンより1人少ない24人に制限される。内外野手だけでなく捕手もできる木村は、困ったときに投手以外のあらゆるポジションを埋められる控えとして欠かせぬ選手の1人となっていた。

「タイトルを取るような選手でもないですし、生え抜きの有名選手でもない。代表に選ばれて、本人が一番驚いていました。ただ、オールスターに監督推薦で選んでくださったのが長嶋監督で、前年の(アジア)予選にも呼んで頂いた。本人は長嶋監督が目をかけて、選んでくれたんじゃないかと、凄く喜んでいました」

 こう語るのは木村の妻・由美子だ。

 木村は06年に巨人に移籍し、09年限りで現役を引退。そのまま巨人の内野守備走塁コーチに就任した。しかしコーチ1年目の10年4月2日、マツダスタジアムでの広島戦の試合前のノック中にくも膜下出血で倒れ、5日後の7日に息を引き取った。まだ37歳だった。

「オリンピック直前の合宿でケガをしたときには、すぐに電話がかかってきました。日本に帰る話も出たけど、雑用でもいいから残してくれと頼んで残ることになった。だからひょっとしたら試合には出られないかもしれない、という連絡でした」

 由美子はこう記憶を手繰り寄せた。

「負けたくない人、ダメだとかそういうことは知らせたくない人なので、ケガはしたけどチームに残るから、と。でも後になってケガは重くて、帰国する話もあったけど、本人が泣いてお願いしていたという話を人伝てに聞いて……そんなだったんだと驚いたのを覚えています」

 事実関係を証言するのはコーチの高木豊だった。

「キムタクがケガをしたので、現場は代わりに井端(弘和の招集)をリクエストしたんです。井端はアジア予選のメンバーでしたから。そうしたら中日に拒否されたんですね。しかもキムタクが泣いてね……『帰りたくない。何でもするから残してくれ』と。故障した選手を抱えて戦うのはキツいですけど、彼の『この涙を絶対に生かす』という言葉に『分かった』となりました。その時点で補充はしないことに決まりました」

 言葉通りに木村は本大会ではあるときは1塁コーチャーを務め、あるときはブルペン捕手として投手の投球練習のボールを受けた。そうして裏方としてチームを支えながら、ケガの治療を続けて試合にも2試合に出場。カナダとの3位決定戦では2安打を放って、銅メダル獲得への大事な戦力となったのである。

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