中森明菜が、表舞台から姿を消して4年が経つ。今年は彼女のデビュー40周年目に入る。これを記念して6月には1980年代を中心とした初期の全シングルを収めたボックスセットも発売された。
明菜の長きにわたる“沈黙”は、その才能が開花した80年代への郷愁をいやが上にも誘う。(「文藝春秋」2021年9月号より、全2回の1回目/後編に続く)
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80年代は、熱に浮かされた時代だった。
校内暴力の嵐が吹き荒れ、若者はブランドブームを先取りした小説「なんとなく、クリスタル」に熱狂。その一方、マネーゲームに狂奔した男たちが引き起こした戦後最大の詐欺「豊田商事事件」が幕を開ける。
そして85年のプラザ合意を機に、為替相場は急激な円高、ドル安へと向かい、バブル経済が始まった。株価は上昇を続け、89年には日経平均株価が3万8915円の史上最高値をつけた。その空前の好景気は、“ジャパン・アズ・ナンバーワン”という言葉に象徴された。
混沌と狂乱の時代に現れた中森明菜
日本が混沌と狂乱の時代を迎えていた80年代。その不世出のアイドル、中森明菜は現れた——。
昨年11月9日、明菜を世に送り出した元所属事務所「研音」の社長だった花見赫がこの世を去った。享年83。
花見は、読売新聞の名物記者だった父親の影響で、日本テレビに入社。音楽ディレクターとして「シャボン玉ホリデー」や「スター誕生!」といった人気番組に関わり、81年に研音の社長として迎えられた。
研音と言えば、今でこそ数多くの俳優を抱える大手事務所だが、もともとは競艇の予想紙を発行する研究出版の音楽部門としてスタートした。しかし、花見が加入すると、堀江淳のデビューシングル「メモリーグラス」が、70万枚の売上げを記録、ピンク・レディーからソロに転じた増田けい子(現在は惠子)が、中島みゆき作詞・作曲の「すずめ」でヒットを放ち、研音はたちまち上昇気流に乗った。そして、極めつけが、中森明菜のブレイクだった。
花見の80年代は明菜とともにあったと言っても過言ではない。
彼の晩年を、長男が明かす。
「父は5年前に癌を患い、再発を繰り返し、最後は入院先の病院で肺炎で亡くなりました。徐々に終活を始めていたようで、持ち物を整理したり、人との付き合いもごく限定的になっていました。父は病床で、自分がお世話になった方を20名ほどあげ、その方への想いなどを書き残しておりました」
筆頭として名前があったのは、研音の創業者で、現在は研音グループの代表を務める野崎俊夫だった。