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2021/08/26

「彼女は携帯も持っていない」

 親族の一人は、明男の心境の変化をこう代弁する。

「物忘れが酷くなってきたことも影響していると思います。身内もみんな明菜には会いたいですよ。ただ、彼女は携帯も持っていないし、直接連絡を取る方法もないんです」

 明菜は現在、所属事務所の社長兼マネージャーの支援を受け、都内のマンションでひっそりと暮らす。外部との接触はレコード会社の関係者らとメールでやりとりする程度だ。

 彼女は血を分けた肉親であっても、自分の意に沿わないものは遠ざけてきた。世間が作り上げた“虚像”を受け入れ、孤独の淵を歩いてきた。

 彼女はなぜ消えたのか——。

 16歳でデビューした明菜は当初から“ドラマがある”アイドルだった。当時の歌謡界は、目に見える形で時代の“周波数”が切り替わる変革期にあった。80年4月に松田聖子がデビューし、半年後に山口百恵が引退、翌年3月にはピンク・レディーが後楽園球場で解散コンサートを行ない、大きく勢力図が変わろうとしていた。

松田聖子 ©文藝春秋

 82年は2月に、史上最悪の“人災”と呼ばれた赤坂のホテルニュージャパン火災、そして翌日には羽田沖で、機長が“逆噴射”させた日航機が墜落する昭和史に残る衝撃的な事件が相次いで発生。そして9月に火を噴くことになる三越のワンマン社長解任のクーデター計画が、水面下で静かに進行し始めていた春のことだった。

「こんなの着て歌うなら歌手になりたくない!」

 明菜のデビューからわずか4日後の5月5日。今は閉園となった「としまえん」の野外ステージで、デビュー発表のミニコンサートが開催された。午前中は晴れていた空に、次第に雲がかかり、午後からは雨がパラつき始めていた。

 3000人を収容できる会場には、続々と観客が押し寄せ、13時半からの開演を待っていた。開演15分前。バックステージにいた明菜のもとに、ブルーのワンピースにピンクの胸当てをあしらった衣装が届けられると、彼女の表情は一変した。

「こんなの着て歌うなら歌手になりたくない!」

 彼女はそう叫んで、泣きじゃくった。開演時間は刻々と迫り、スタッフが必死で説得を試みるが、彼女は頑として譲らない。そこにマネージャーに伴われた明菜の母、千恵子が現れた。

 最初こそ諭すように話していた千恵子だったが、終いには堪忍袋の緒が切れ、こう怒鳴り上げた。

「じゃあ今すぐ辞めろ。一生歌手になるんじゃない」