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「嫌だ!絶対に唄いたくない!」激しく泣き叫んだ中森明菜「少女A」誕生秘話 “じれったい、じれったい”に変えたら…

中森明菜「消えた歌姫とバブルの時代」#2

2021/08/26

 中森明菜の歌手としての原点は、母、千恵子である。ワーナーの制作ディレクターの島田雄三は、明菜と母親との関係が、二人三脚で歌の道を進んだ美空ひばりと実母との関係にダブって見えたという。

 明菜の母、千恵子は19歳の時に、美空ひばりに憧れ、歌手を目指して鹿児島から上京。ホステス兼歌い手として働いていた新宿・歌舞伎町のキャバレーで、明男と知り合い、21歳で結婚した。2人は、6人の子供を抱え、暮らし向きは決して楽ではなかった。だが、千恵子は志半ばで断念した歌手の夢を娘たちに託すべく、家にピアノを買い、バレエを習わせた。明菜もまた、母を喜ばせるために歌手を目指し、スタ誕への挑戦を続けたのだ。(「文藝春秋」2021年9月号より、全2回の2回目/前編から続く)

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中森明菜 ©時事通信社

歌は家族と繋がる生命線

 父・明男が、千恵子について話す。

「家内は、自分の夢が叶ったと随分喜んでいました。研音の野崎さんや花見さんも自宅によく来てくれて、料理上手だった家内は、故郷の鹿児島の料理やいろんなものを作ってもてなしていました。歌が好きだから、時にはテープレコーダーに自分で歌を吹き込んで、聴かせることもありました」

 明菜にとって歌は、家族と自分とを繋ぐ生命線でもあった。

 ワーナーの邦楽宣伝課にいた富岡信夫は、プロモーション用の基礎資料として明菜に書いて貰ったプロフィールに目を留めた。そこには彼女が子供の頃、身体が弱く、病気がちだったことが綴られていた。

「兄弟姉妹のなかで、一人だけ病気になって母親を独占した負い目のようなものがあるんじゃないかと感じました。とにかく歌で家族にも存在感を示したいという気持ちは理解できた」