表面30cmほどの土を耕すことで、バランスが悪くなってしまった黒土と、下にある砂を理想的な状態に戻す“天地返し”は、甲子園球場の整備においてとても重要な作業。しかし、2003年はそのタイミングを誤り、「最悪」な状態で開幕を迎えることになった。
そう語るのは、2003年から阪神園芸のチーフグラウンドキーパーを務める金沢健児氏だ。ここでは同氏が阪神園芸の職人技を詳らかにした著書『阪神園芸 甲子園の神整備』(毎日新聞出版)の一部を抜粋。最悪なグラウンド状態でチーフに就任した際の苦悩、そして星野監督との秘話を紹介する。(全2回の2回目/前編を読む)
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突然チーフに
よりによってグラウンドが最悪だったこの年、私はグラウンドキーパーのチーフを任されることになった。辻さんが、6月いっぱいで現場から退くことになったからだ。
当時辻さんは58歳。本来の定年は60歳だったが、58歳で役職定年し、現場を離れるという規則が、この年急に決まってしまった。
年齢的に考えると、私が辻さんの跡を継いで次のチーフになるだろうとは思っていた。チーフになったときのことを想定して、グラウンド整備の技術から人の動かし方まで、辻さんの仕事を見て気づいたことをメモするようにはしていた。
ただ、辻さんが引退することを知らされたのは前月の5月。ゆっくり準備をしようと思っていたのに、まさか引き継ぎまで1ヶ月しかないなんて、予想していなかった。
心づもりはまだできていない。辻さんが築き上げてきたものを、自分がすべて引き継げるのか。不安もあった。しかも、グラウンドは最悪。
それでも、周りからのプレッシャーは、あまり感じなかった。「辻さんがいなくなってもうたら、あかんなあ」という評価をする人は、そんなにいなかったと思う。
それに、ずっと前に辻さんに言われた、「もう、俺おらんでもいけるなあ」という言葉が、支えてくれていた。
「まあ、なるようになるやろ」。
こうして、私は阪神園芸グラウンドキーパーのチーフになった。
チーフの気づき
「甲子園だからできる!」
辻さんからチーフを引き継いで一番大きく変わったのは、グラウンドキーパー以外の人たちと接する機会が増えたことだ。
それまでは、自分のグラウンド整備の技術をどのように向上させるかということが最も大切な課題だった。
ところが、チーフは自分の技を磨くこと以上に、対外的な交渉を行うことが重要になってくる。自然と、周囲の評判というものに耳を傾けるようになった。私はここではじめて、阪神園芸のグラウンドキーパーがどれだけ信頼されているかを理解することになった。
2003年夏の甲子園、倉敷工業高校と駒大苫小牧高校の試合。4回表の時点で8対0と、駒大苫小牧が試合を有利に進めていた。甲子園での初勝利が、見えてきていた。
ところが、雨だ。4回の裏、試合開始から断続的に降っていた雨が、一気に激しさを増した。グラウンドは、みるみるうちに水浸しになっていく。試合は中断。
天気予報が告げる雨情報からすると、その日、試合の続行はなさそうだった。