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《追悼メリー喜多川》旧知の日系アメリカ人が初告白「ジャニーはヒー坊、メリーは泰子ねえちゃんだった!」

《追悼メリー喜多川》旧知の日系アメリカ人が初告白「ジャニーはヒー坊、メリーは泰子ねえちゃんだった!」

知られざるアメリカ赤貧時代 #1

2021/09/11
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「泰子ねえちゃんにもう逢えないと思うと、それは寂しいですよ。でもね、頭をよぎるのは楽しかった想い出ばかり。泰子ねえちゃんたち姉弟は、慣れないアメリカで親もなく、その上、経済的理由で姉弟さえ離れ離れに暮らして……どんなに苦労したことか。それでも、苦節時代をバネに才能を開花させた。マーベラス! 見事な生涯でした」

 こう語るのは、ロサンゼルス在住の日系アメリカ人、タエミ・ウエスタさん(79)だ。タエミさんのいう「泰子ねえちゃん」の本名は、藤島メリー泰子、旧姓、喜多川。そう、先月逝去したジャニーズ事務所名誉会長のメリー喜多川である。(全2回の1回目/続きを読む)

メリー喜多川氏。ロサンゼルスでは「泰子」と呼ばれていた

ロサンゼルス仏教寺院の長女に生まれて

 メリー喜多川は、1927年(昭和2)、ロサンゼルスで生を享けた。父親、喜多川諦道(たいどう)は、高野山米國別院の第三代主監、つまりはお寺の住職だった。メリーを「泰子ねえちゃん」と慕ったタエミさんの亡き父もまた同院の僧侶で、諦道から二代後の第五代主監をつとめた。

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1933年(昭和8)、盂蘭盆会の記念写真に映る諦道&栄子夫妻(2段目中央辺り) photo courtesy of Koyasan Beikoku Betsuin of Los Angeles

 ロサンゼルスのダウンタウンに、後に「リトル東京」と呼ばれる日本人街が形成され始めたのは19世紀末。当時アメリカでは、アジア人排斥運動が日に日に激化していた。そのため、日本の仏教各派は、心の拠り所を求める日本人移民たちに向けて僧侶を派遣した。そんな流れのなか、1912年(大正元)、リトル東京に米國高野山大師教会が創立される。米國高野山大師教会は、その後、高野山米國別院と名を改め今日にいたるが、一貫してロサンゼルス日系社会の中心的役割を担ってきた。

現在の高野山米國別院(ロサンゼルス)。来年、創立110年を迎える

 この高野山米國別院に、喜多川諦道が現れたのは1924年(大正13)。高野山(和歌山県)の僧侶だった25歳の諦道は、後援者から支援を得てひとり欧米外遊の旅に出発、その途上に別院を訪ねた。ところが、ちょうど当時の主監が日本に帰国することになり、諦道に後任を託す。こうして諦道は、日本出国時の計画とは打って変わって、思いがけずロサンゼルスにとどまることになったのである。

メリー、ジャニー両氏の父、喜多川諦道氏 photo courtesy of Koyasan Beikoku Betsuin of Los Angeles

 諦道は、日本から妻、栄子を呼び寄せ、数年後には二男一女にも恵まれた。長女がメリー、末っ子が、彼女とともに一大芸能事務所を育て上げたジャニー。1931年(昭和6)生まれのジャニーのファーストネームはジョン、ミドルネームは擴(ひろむ)で、ジャニーはジョンの愛称である。また、メリーとジャニーの間には、長男、真一(まさかず)がいた。

 タエミさんの母で、当年百歳になるシカコ・ソガベさんが、驚異的な記憶力と矍鑠とした態度で当時を振り返る。

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