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《追悼メリー喜多川》旧知の日系アメリカ人が初告白「ジャニーはヒー坊、メリーは泰子ねえちゃんだった!」

《追悼メリー喜多川》旧知の日系アメリカ人が初告白「ジャニーはヒー坊、メリーは泰子ねえちゃんだった!」

知られざるアメリカ赤貧時代 #1

2021/09/11
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戦前、日本人の子は日本名と英語名を命名された

「喜多川先生は、とにかく家族思いでした。奥さんは美しい方で、信徒が集まるお盆などの行事では日本舞踊を披露していましたね」

日系アメリカ人二世のシカコ・ソガベさん(100)は、メリー、ジャニー両氏の幼なじみ。在ロサンゼルス

 シカコさんは、メリーより6歳年上の日系二世。喜多川家とは自宅が近く、また、鮮魚の卸と小売業で財を成した父親が高野山米國別院の総代、母親が同院婦人部の幹部だったことから、喜多川家の子たちとは年中一緒に遊ぶ仲だった。

「泰子は活発! 反対に、擴はおとなしい子。みんなからヒー坊と呼ばれていました。お寺のそばにあった日本人の散髪屋さんが、ヒー坊をたいそう可愛がってね。マー坊こと真一を含めて、3人ともとても良い子でしたよ」

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 お寺に散髪屋、魚屋に近所同士で遊ぶ子どもたち――古き良き日本を彷彿させる情景だ。現在のリトル東京は、およそ82,000坪(67エーカー)の土地に3500人ほどが居住する小さな一角だが、戦前は今の6倍の規模で一大日本人街を成していたという。

 タエミさんによれば、「戦前、日本人の両親のもとに生まれた子は、日本名と英語名の両方を命名されましたが、実際には、みんな日本名で呼び合っていました。だから、私は長い間、泰子ねえちゃんが、日本ではメリーと呼ばれていることさえ知らなかったんですよ」。

 リトル東京の子どもたちは、就学するまで親や周囲と日本語で話すのが普通だった。大勢の同胞に囲まれて日本語だけで生きていける世界が、戦前のロサンゼルスには存在した。メリーやジャニーが生まれ育ったのは、そんな特殊なアメリカだった。

1940年代のリトル東京。英語ができなくても生きていける一大日本人街だった ©AP/アフロ

ハウスガール、金持ちアメリカ人の家政婦時代

「大師教会開教師喜多川諦道は愈々明日午後四時出帆の秩父丸に乗船、家族同伴帰朝の途に上る事となった。(中略)今回の帰朝に際しても教会員は勿論一般同胞からも惜しまれて、引き止め運動なども起こされたが事情止むなく、故国の教化界に入って活動することとなったのである」

 1933年(昭和8)8月25日、ロサンゼルスの日系紙、「羅府新報」に掲載された記事だ。「温情開教師喜多川師出発、誰からも持たれた親しみ」と題された見出しや記事内容から、諦道がいかに人々に敬愛されていたかがわかる。

 順調なアメリカ生活に終止符を打った理由を、メリーは後年、1983年11月号の「Free」誌で、「日本の教育を受けるため」と語っている。

諦道氏がいた頃の高野山米国別院(ロサンゼルス) photo courtesy of Koyasan Beikoku Betsuin of  Los Angeles

 帰国時、メリー5歳、ジャニー1歳10カ月、ともに就学前の年齢だった。一家は当初大阪に落ち着いたが、ほどなくして母の栄子が早逝。国内では軍靴の足音が日増しに高まり、1941年(昭和16)に日米が開戦すると、都市部は爆撃の危険にさらされた。喜多川家の子どもたちは、大阪を離れ知人を頼って和歌山に疎開する。