昭和34年(1959年)創刊の総合週刊誌「週刊文春」の紹介サイトです。最新号やバックナンバーから、いくつか記事を掲載していきます。各号の目次や定期購読のご案内も掲載しています。

「ラッキーだよね。私を撮って有名になるんだから」中森明菜に“鎧”が必要だった本当の理由《リハ失踪事件、演出に猛抗議》

中森明菜「消えた歌姫とバブルの時代」#3

2021/09/29

 中森明菜のセカンドシングル「少女A」は、1982年7月に発売されると評判を呼び、彼女にとって初めてのヒット曲となった。

 しかし、担当ディレクターだったワーナー・パイオニア(現・ワーナーミュージック)の島田雄三は、発売から1カ月近く、明菜とはまともに口を利いていなかった。彼女が不満を募らせていたことは明らかだった。(「文藝春秋」2021年10月号より、全2回の1回目/#4に続く)

中森明菜 ©時事通信社

◆ ◆ ◆

「絶対に唄いたくない!」

「明菜に初めて『少女A』のデモテープを聴かせたら、みるみる彼女の表情が曇り、『嫌だ! 絶対に唄いたくない!』と泣きじゃくりました。『少女A』の主人公である不良少女は自分のことを調べあげて歌にしたものと思い込んでしまったんです。のちに、彼女がバイクの後ろに乗って日の丸の旗を持っている写真が雑誌に持ち込まれたと聞きましたが、当時の私がそんな話を知るはずもない。『少女Aは明菜じゃない』と必死に説得を試みましたが、明菜は頑として譲らなかった」

 痺れを切らした島田が「バカ野郎、やるって言ったらやるんだよ」と怒鳴ると、彼女は「嫌だ」と喚き散らした。最後は島田の、「もし、これを出して売れないっていうなら、俺が責任取る」という懸命の訴えで、何とか、翌週のレコーディングの約束だけは取り付けたが、成功するか否かは、一か八かの賭けだった。

怒り心頭の様子が逆に歌の迫力に

 レコーディング当日、島田はスタッフに「テストからテープを回してくれ」と指示を出した。

「本来なら、20回、30回は歌うのですが、今回は3回が限度だろうと踏んでいました。それをうまく編集するしかない。当日、私は強気の姿勢を崩さず、明菜にも『やる気ないんだったら帰るか』という話までしました。テストで歌わせた後、『ちっとも伝わって来ないんだよな』と挑発すると、彼女は怒り心頭の様子で、それが逆に歌の迫力に繋がった。そこから少し粘って3テイクほどで『はい、終わり。ご苦労さん』とレコーディングを切り上げました」

 明菜は不服そうな顔でスタジオを後にした。完成したレコードには、撮影でグアムに行った際、プールサイドで疲れ果て、不貞腐れている明菜の写真が採用された。もちろん本人が望んだ写真ではなかった。