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「羽生に勝たないと一生こんなものしか…」新潟から上京した近藤正和七段は生のナスをかじった

「羽生に勝たないと一生こんなものしか…」新潟から上京した近藤正和七段は生のナスをかじった

近藤正和七段インタビュー #1

2021/10/09
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 ゴキゲン中飛車の創始者、近藤正和が七段に昇段した。1971年生まれで新潟県柏崎市出身。1983年に奨励会に入り、1996年10月にプロ(四段)デビューを果たした。

 ひとつ上の1970年生まれに「永世七冠」の羽生善治九段、永世名人の森内俊之九段らがいる。奨励会入会は近藤の1年前だ。1985年に羽生が四段昇段したときに近藤は2級、1996年2月に七冠独占を果たしたときは三段だった。つまり自分と同世代がスター棋士として駆け上っていくなか、年齢制限におびえながら奨励会を戦っていた。

 その男が新戦法を編み出し、第29回将棋大賞(2001年度)で升田幸三賞、第32回(2004年度)で勝率一位賞と連勝賞を受賞した。背景にどんなドラマがあったのだろうか。

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近藤正和七段

 また、近藤は2014年から2021年にかけて、関東の奨励会幹事を務めた。藤井聡太三冠と同世代の多くはまだ奨励会に所属している。近藤の抱いた気持ちは、彼らに通じるものがあるだろう。

 プロを志したのは小学校4年生。1981年当時は上越新幹線さえも通っておらず、柏崎から東京に通うのが難しい。修行の第一歩は上京、内弟子生活から始まった。

棋士になるのは楽そうだと思っていた

――近藤七段の実家は和菓子屋。地元の柏崎だけでなく、新潟名物の笹だんごは全国各地に発送していたそうですね。いわば跡取り息子だったわけですが、それでも将棋のプロになりたいと思ったのはなぜですか。

近藤 なりたいというか、もっと簡単になれると思ったんだよな~(笑)。原田師匠(※1)は、「頑張ればなれる」っていうし、楽そうだと田舎の少年は思っていたんですよ。棋士になるのがどれほど大変か、いまと違って情報は簡単に手に入らなかったし。

※1 新潟県出身の原田泰夫九段。1961年から6年間、日本将棋連盟会長を務めた。引退は1982年で、記念パーティーでは田中角栄元首相が挨拶している。2004年、81歳で逝去。

七段昇段は今年5月20日。第80期順位戦C級2組で佐藤慎一五段に勝ち、六段昇段後に公式戦150勝の規定を満たした

小学生のうちは好きにやらせてみようとなり…

――ご両親は反対されたんですか?

近藤 当然、反対でした。和菓子屋を継がせるつもりで、僕を小学校3年生のときから配達に連れていって、取引先に「息子です」と紹介していましたからね。それに将棋指しは堅気じゃないと思われていた。

 でも師匠の家が立派で、「頑張れば一人前になれる」といわれたから親も折れたんです。「名人になれる」といわないのが師匠のえらいところなんだ(笑)。原田師匠はA級10期の実力からして、アマチュア時の羽生さん(善治九段)や森内さん(俊之九段)と指せば、彼らの才能をわかっていたと思いますね。あとは「お宅のお子さんは亥年で将棋指しに向いている。時の名人の中原さん(誠十六世名人)、大山さん(康晴十五世名人)、そして私と同じだから」とも説得されて、まあ小学生のうちは好きにやらせてみようとなったわけです。