明菜は警察の調べに対し、近藤には言及せず
明菜は警察の調べに対し、自殺の原因について、近藤には言及せず、研音への不満を口にしていたという。それは近藤に累が及ばないよう、最後の砦を必死に守っているようでもあった。
彼女は近藤の言葉しか信用しておらず、彼の名代として病院に駆け付けたメリーに全幅の信頼を寄せているようだった。
メリーは、その後の対応を小杉に任せ、研音の野崎会長とワーナーの山本社長に、「この人が綺麗にしますから」と告げた。
約1カ月の入院生活の後、明菜はマスコミの目を盗んで退院し、小杉の自宅に身を寄せたという。小杉は自宅を自由に明菜に使わせて、心身ともに傷んだ彼女の回復を待ち、彼女と研音側とを引き合わせた。
自殺未遂から約2カ月の時が過ぎようとしていた。
その間、明菜を取り巻く環境はガラリと変わっていた。この面談は、明菜にとって事実上の研音との決別の儀式だった。
「自殺未遂当初は『明菜の帰るところは研音しかない』と言っていた野崎会長も、彼女が研音を悪し様に言っていると聞き、難色を示すようになった。他の所属タレントの手前、言いたい放題の明菜を、諸手を挙げて迎え入れると、示しがつかなくなると思ったのです」(研音関係者)
放置された1000万円超の入院費
研音側は、明菜が特別待遇で入院していた慈恵医大の入院費の支払いも拒否した。1000万円超の入院費は宙に浮いたまま誰も支払おうとはせず、請求書は1年以上も放置された。
1982年のデビュー以来、明菜は研音の稼ぎ頭として八面六臂の活躍をみせたが、デビュー2年目には両者に不協和音が生じていた。
「その頃、ワーナーの役員が独立して新しいレコード会社『ハミングバード』を設立する動きがありました。ワーナーの制作や宣伝、営業からも人材を引き抜き、新会社設立に向け動き始めるなかで、移籍組の幹部が研音の野崎会長に挨拶に行くと、『辞めるなら、明菜を連れて行ってくれないか』と打診されたのです。彼女はデビュー前から物をはっきり言う子でしたが、『少女A』『セカンド・ラブ』のヒットでますます扱いが難しくなった。『このままではダメだ。環境を変えなければ』という危機感が研音の上層部にはあったのです」(ワーナーの元社員)
明菜移籍の噂が広まり、彼女の当時の担当ディレクターだった島田雄三も辞表を提出して、移籍に傾いていた。しかし、明菜は家族とも相談のうえでワーナーに残った。そして島田も移籍を撤回し、ワーナーに戻ることになった。