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2021/10/27

家族と事務所に対する不信

 ただ、すべてが元通りというわけにはいかなかった。その後、研音と明菜とは、彼女の家族を巡る問題で埋めがたい溝ができてしまうのだ。明菜は、デビュー当初、金銭の管理をすべて実家がある東京都清瀬市の家族に委ねていた。

 彼女は自著「本気だよ 菜の詩・17歳」(小学館)でこう述べている。

〈私のお給料はみんな清瀬のほうへ送ってもらっています。私って子供のころからあまり物をほしがらない子だったし、お金って、服を買ったり日常生活で最低限必要なものを買うくらいで、ほとんど使わないんです。だから清瀬のほうで貯めてくれているみたいね。でも、おいといてもしょうがないから、家族が使えばそれでいいと思っている〉

中森明菜(1985年当時) 

 研音の野崎会長や社長の花見赫あきらは何度も明菜の実家に通い、家族との関係構築に努めた。

 84年に明菜の母、千恵子が清瀬駅前にレストラン&バーを開業した際には、開業資金の援助も買って出た。「(歌手志望だった)母親のために歌手になった」と公言して憚らなかった明菜にとって、母親の喜ぶ姿は、何よりも励みになっていたに違いない。

 87年、明菜は清瀬の実家から近い東武東上線沿線の駅近くに賃貸マンションと店舗が入る3階建てのビルを建設した。「大明華ビル」と名付けられたそのビルは、父、明男が先祖から相続した土地に、明菜が約1億円を銀行から借り入れて建てたものだ。そこには精肉店を営んでいた父親が経営する中華料理店や6人きょうだいの長姉や次兄が経営する店も入っていたが、父親の店以外は1年以内に閉店に追い込まれた。

中森明菜(1994年当時) ©文藝春秋

 家族のために良かれと思ってやったことだが、次第に彼女のなかでは家族への違和感が芽生え始めていた。この頃、最愛の母には癌がみつかり、3度の手術を経た後も体調が戻らず、深刻な影を落としてもいた。

 当時の明菜は、17歳の“何も欲しがらない”彼女とは、まるで正反対の人生を歩んでいた。80年代半ばからセルフプロデュースの道を選ぶようになると、お金に糸目をつけず、ブティックに行けば、棚の端から端までを指差して、「全部下さい」と棚ごと買い上げることも珍しくなかった。大量の衣装を保管する倉庫代やクリーニング代は嵩んだが、明菜はその尻拭いに追われていた研音の献身には無関心だった。

 やがて明菜は、研音が自分をコントロールするために家族にこっそりお金を渡し、懐柔しようとしていると思い込み、研音と家族への不信感を募らせるようになっていく。

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