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近藤真彦宅で自殺を図ったことを「なんて愚かな」と悔やみ…なぜ“金屏風会見”は中森明菜を表舞台から遠ざけたのか

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2021/10/27

 激動の80年代が、終わりを告げようとしていた89年12月、中森明菜の記者会見は急遽決まった。12月31日の大晦日、しかもNHKの紅白歌合戦が放映されている夜10時に設定され、その様子はテレビ朝日が生中継することになった。

 芸能史に残る“金屏風会見”だ。(「文藝春秋」2021年11月号より、全2回の2回目/#5から続く)

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金屏風を用意したのは誰?

 中継を担ったテレビ朝日は当時制作三部長で、音楽班を仕切っていた皇すめらぎ達也が陣頭指揮をとった。皇はテレビ朝日の実力者として知られていたが、今年3月に逝去。この金屏風会見については、生前に「私がメリーと話をして決めた」と語っていた。

1989年末の金屏風会見での中森明菜(右)と近藤真彦(左) ©文藝春秋

 事情を知るテレ朝関係者が明かす。

「大晦日の夜10時の枠は、ジャーナリストの田原総一朗の討論番組が予定されており、編成に話を通して、そこに押し込んだ形でした。もちろんスポンサーもいる訳ですから、中森明菜が出席する謝罪会見である旨は伝えてありました。責任者の皇は、年末年始をハワイで過ごすのが慣例で、『あれこれ詮索されないよう当日はハワイに行く』と言って、実際の作業は現場に委ねていました。会見の前日、担当者は朝方の3時頃まで明菜と一緒にいたと聞いています。明菜が本当に来てくれるのか、それだけが不安だったのです」

 当日、会見場の新高輪プリンスホテルで、報道陣の前に姿を現した明菜は、ロングヘアをバッサリと切り、地味なグレーのスーツ姿だった。

涙を流す中森明菜 ©文藝春秋

 彼女は「私が仕事をしていく上で、一番信頼していかなくてはならない人たちを信頼できなくなってしまった」と自殺未遂の理由を説明。近藤の自宅で自殺を図ったことについては「今になっても、なんて愚かな、なんてバカなことをしたのか」と後悔を口にした。

「彼女と近藤は、自殺未遂の後、すでに男と女の関係は終わっていました。彼女はすべて納得したうえで会見を開くことを受け入れていました。会見場に金屏風が用意されていたため、婚約会見を開くという甘言に乗せられて彼女が会見に臨んだかのような報道もありましたが、金屏風は事情を知らないホテル側が、記者会見と聞いて用意したに過ぎません」(前出・テレ朝関係者)

 後年、明菜は金屏風会見について聞かれると、「あんなことになるとは思っていなかった」と語っている。それは騙し討ちにあって会見の場に引っ張り出されたという意味ではない。芸能活動再開のきっかけになるはずだった金屏風会見は、結果的に彼女を表舞台から遠ざけ、さらに彼女の復活に期待していた人たちも遠ざけてしまったのだ。