100両を情事に使い込む
京都までの道中、彼はなかなか奔放な女遊びをしています。
「正しいことに使いなさい。今後は身を誤ることのないように」と父からもらった餞別の100両を手に、江戸でさっそく吉原に足を踏み入れます。吉原は江戸最大の遊郭。当時23歳の彼は、故郷に妻とわが子を残しながらも、その誘惑には勝てなかったのでしょう。
江戸を出てからも渋沢の女遊びは続きます。東海道には、それぞれの宿に「飯盛り女」と呼ばれる娼婦がいましたが、どうやら道々で飯盛り女との交渉があったようなのです。
そして伊勢参り。庶民の間で大流行した伊勢神宮への参拝は、その後の古市遊郭での“精進落とし”までがセットでした。つまり、伊勢参りを済ませた男たちは、その裏手にある花街で歓楽に耽っていたのです。渋沢ももちろん例外ではなく、そうこうしているうちに京都に着くと手元不如意に陥りました。100両ももらったのに、かなりいい気になって散財したんでしょうね(笑)。京都で過ごした3年間で、新選組と恋の鞘当てを繰り広げたという話も残っています。
幕臣となり、徳川慶喜の弟・徳川昭武に同行してパリへ行ったときも、面食いの渋沢はパリジェンヌを前に目を丸くしちゃう。「なんて美人揃いなんだ」と。
当時のパリは私娼率が高かったから娼婦なのだろうけれど、あるフランス人女性に惚れこんだ渋沢は、「ぼくと君は縁が深いようだ。ぜひとも日本に来てくれないか。これからの人生をともに暮らしていこう」と誘うわけ。でも、「何言ってんのあんた。バカじゃない。図々しい」と一蹴される。“お持ち帰り計画”があっけなく散った彼は顔色を失った、という逸話が残っています。
武士にも会話のセンスが必要に
振り返ってみれば、江戸時代末期には文化も徐々に成熟し、日本にも“サロン文化”というものが出来上がりつつありました。
まず、接待ホステスというべきか、新しいタイプの芸者さんが柳橋の舟宿などに現れた。吉原の娼婦のように来たお客を一方的に受け入れるのでなく相手を選ぶ、一種の社交レディです。
そこへ明治維新が起きて、それまで刀にもの言わせていた薩長の武士たちがやって来るようになります。口ベタで野暮な侍が芸者さんのところへ行くと、彼女たちはみな馬鹿にしながら相手をするわけです。男もそれに負けじと洗練されてくる。武士が武力でなく、“粋”かどうか、つまりセンスのいい会話ができるかでモテるかどうか決まるようになったのです。