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2021/10/24

「芸者なぞとの噂も立てられたものだ」

 男同士でも「どうだ、俺の方がモテるぞ」とか言って競争するわけですね。僕はこれを「ドーダ競争」と呼んでいますが(笑)、そうやって、今でいう銀座文化、つまり大正・昭和の文化人や知識人たちが銀座の社交サロンに集った、あの文化の礎ができました。

 かの伊藤博文や井上馨もたいそうな女好きで芸者さんに入れあげていたらしいのですが、実際に2人は芸者さんと結婚しています。結婚を血と血、家と家の繋がりと見ていた江戸時代の上級武士の家では、そのようなことは絶対に許されません。だから一概に2人が遊び人だったというわけでもなくて、身分を超えた結婚はある意味、新しい時代の象徴とも見ることができるのです。

 渋沢は、深谷の農民の出から武士になり、明治の高官の仲間入りをしました。

「私も若い元気な頃には相当によく遊んで、芸者なぞとの噂も立てられたものだ」。回顧録のなかでそう述べ、伊藤には「渋沢というのは堅苦しい男かと思っていたが、芸者買いができるとはなかなか話が通じるな」と言われた、とも振り返っています。自分は芸者と渡り合える通人で、だからこそ井上や伊藤とも対等に付き合うことができたのだ、と匂わせているのですね。

“烈女”千代が見せた気丈さ

 さて、これだけ外で女遊びをしていた渋沢のことを妻はどう思っていたのでしょうか。

幼馴染で渋沢とはいとこ同士だった千代(前列右から2番目)

 幼馴染でいとこ同士だった渋沢と千代は、その頃には珍しいことに今の恋愛結婚にかなり近く、互いに恋慕の情は抱いていたと思います。それでも明治の世、一定以上の立場の男性にとっては、妻というのはある種の共同経営者だった。「家」という名の会社をともに運営し、血縁をつないでいくためのパートナーだったのです。夫が外で働き、家庭の実質的な経営は妻が担うというのが当時理想とされた家族の形です。

 渋沢も、千代に求めていたのは家庭運営でした。特に千代は武士の妻の鑑というべきか、いわゆる“烈女”。倒幕に失敗した渋沢が家を離れるときも、生まれたばかりの乳飲み子を抱えながら、「もしあなたの計画が失敗に終われば一家親族重い罪に問われるでしょう。けれど、国のために真心を尽くす大丈夫の妻子と言われることをどうして厭いましょうか。いや、潔く命も捨てようとさえ思いました」と言う気丈さを見せたほどです。

後編へ続く)

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