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周囲からは「健坊」「健ちゃん」と親しまれていた

 友義さんは、瀬戸内に浮かぶ香川県観音寺市の伊吹島出身。中学を出て漁師をしていたが、稼ぎのいい鉄鋼業に転職し、新居浜の地に移り住んだ。

 40年来の付き合いがあった会社の社長が語る。

「すごくおしゃべりで明るい人でした。下の子の健一くんを可愛がっていて、うちで一緒に働いていた時期もありました」

 妻のアイ子さんは、自宅外に置いたプランターでネギや水菜、パセリなどの野菜を作るのが得意だった。

「奥さんも社交的で、楽しそうに友達と井戸端会議をしている姿を忘れられません……」(近隣住民)

 三男坊だった健一さんは周囲から「健坊」「健ちゃん」と親しまれた。松山市内の高校を出た後、溶接工として働いていたが、近年は体調を壊し、実家で両親と暮らしていた。

 夫婦は伊吹島への墓参りは大変だろうと、定住した新居浜市内にお墓を購入していた。この地で育った子供たちへの配慮だった。

3人の殺害を認めるが…

 かくも善良な家族に、得体のしれない恐怖を突きつけていたのが、河野の存在だったのだ。

 事情を聞いていた岩田さんの親族は、街で河野と出くわした際、こう諭した。

「健一は機械オンチなんじゃ。電波とかそんなん、お前の勘違いぞ」

 しかし、河野は聞く耳を持とうとしなかった。

「でも、攻撃されとるんじゃけん。バックに組織がおって、電磁波を当ててきよるんじゃ」

 話をつけようと、河野の行方を捜す健一さんの友人もいた。だが、当人が河川敷で車中生活をしていようとは、この時、知る由もなかった。その間にも、河野の中に巣くう妄執は、野放図に広がっていく――。

 

「刃物を捨てろ!」

 犯行当日。アイ子さんから通報を受け、臨場した地域課の警察官が、拳銃の銃口を向けた。現場にいた河野はおとなしく従い、現行犯逮捕された。だが、全てが手遅れだった。

 逮捕後、河野は3人の殺害を認める一方、「あいつらが悪い」と言い放った。

 親族の一人が憤る。

「今はまだ感情が追いついていません。ただ、河野には相応の報いを受けてもらわないと気が済まない」

 理不尽な惨劇に見舞われた一軒家。モスグリーンの屋根に、秋の陽射しが哀しく降り注いでいた。

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