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「フリーランスには何もない」笠井信輔58歳はフジ退社直後にがん発覚…どん底でも“自撮り棒”でSNS発信を続けた理由

「文藝春秋」11月号「小さな大物」より

 人気アナとして長年勤めたフジテレビを退社し独立、前途洋々という時に、ステージ4の悪性リンパ腫に襲われた笠井信輔さん。どん底の中でも、希望を失わずにがんと闘う自分の姿を発信し続ける姿に多くの人が勇気をもらいました。がんの体験も「足し算の縁」としてさらに活躍の幅を広げる笠井さんに、これまでの人生と今後を伺いました。

笠井信輔さん

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芸能一家でテレビは身近な存在

 父は、異色の公務員でした。元々人形劇団の出身で、社会教育の専門家。公民館の館長などをやりながら、自分で舞台などに出演もしていました。母は芸能一家出身で、祖父は劇作家の阿木翁助。母の兄は東宝の演劇プロデューサー、双子の妹も女優でした。祖父の家にお正月に遊びに行くと、芸能人がいたりして「テレビに出てる人だー」と子ども心に興奮していましたので、テレビはわりと身近ではありました。

母方の祖父で、劇作家の阿木翁助氏と。
旅行先で父と弟達と(本人左端)。「父はイベンター的な仕事が大好きな公務員でした。弟2人もその後、公務員に」

フジテレビにギリギリ受かった就活

 僕は、子どもの頃から話すのが大好きでしたが、小4の時、子ども祭りの野外ステージで司会をして、その楽しさに開眼しました。小学校で児童会長をやったのも朝礼の時に話せるから。マイクを通した自分の声を聴くのが好きでしたね(笑)。

修学旅行の出し物でも司会を担当(左から4人目)。「昔から『人前で喋るなら笠井!』って言われていました(笑)」

 高校の時には、文武両道を目指しバスケット部と放送委員会に所属。当時の放送委員会は、アナウンサーは女子と決まっていたのですが、2年の時に「僕もアナウンスをしたい」と言って、初めて男性アナとして、金曜日の昼休みに自分の番組を持った。だから狛江高校放送委員会初の男性アナなんです(笑)。

高校文化祭でクイズイベントの司会。「教室に入りきらないほどの人が集まり、校内で話題になるほどウケましたね」

 高校のころから将来はアナウンサーになりたいと思うようになり、一浪して早稲田大学に進学後、スキー部と早稲田放送研究会に所属。就活は放送局一本に絞り、フジテレビにギリギリ受かりました。