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2021/11/25

「コンティニュー」は混迷を続け、96年に破産

 栃内は、当時ヒットメーカーとして注目され始めていた小室哲哉と明菜とのコラボを実現させ、小室が明菜に書いた「愛撫」を移籍第一弾のシングル曲にしたいと考えていた。小室も、明菜も乗り気で、レコーディングも行なわれたが、この曲がアルバム曲を経てシングルとして発売されたのは、それから約2年後のことである。

 明菜を取り巻く環境は、事務所の経営が抜き差しならない状態になったことで、またしても空転を始めていったのだ。

「明菜とMCAビクターは契約金3億4000万円で移籍に合意と報じられましたが、私が確認したのは、無くなっていた最初の5000万円を含めても約1億7000万円。資金が回らなくなり、給料の遅配が始まると、明菜に『栃内が契約金を使い込んだ』と吹き込む者がいて、彼女もその話を信じ込んでしまった。そんな事実は一切ありません。ただ、彼女と次第に連絡がとれなくなり、私だけが悪者になっていました」(栃内)

 明菜は周囲に、栃内への怒りを隠さず、「最初はいいことを言っていたのに騙された」「みんな私を利用して商売する」と不満をぶちまけた。

“金屏風会見”で涙を流す中森明菜 ©文藝春秋

 明菜が離れ、主を失った「コンティニュー」は混迷を続け、その後、96年に破産。栃内は債務整理に追われる日々のなか、偶然、白金のタイしゃぶ屋で明菜と遭遇した。彼女は栃内を物凄い形相で睨みつけ、無言で去っていったという。

 彼女はまたさらに孤独の鎧を身に付け、限られた人としか接点を持たなくなっていく。

明菜が最も信頼を置いていた男性

 当時、彼女が最も信頼を置いていたのは、20代前半に、六本木のチャイニーズレストランで、客と店員として出会って以来の知り合いだった江田敏明。二人は交際中だった。

 江田は、93年から明菜が設立していた個人事務所「NAPC」の副社長としてマネジメントにも関わるようになった。明菜はこの頃、後見人を自任する女性が書いた暴露本騒動に巻き込まれ、その混乱を収めるために江田に助けを求めていた。

©文藝春秋

 今回改めて江田に取材を申し込んだが、「今は飲食業をやっていて、彼女と何の関係もないですし、ずっと会ってもいません」と口が重い。

 NAPCには当時、彼女が親しくしていたフジテレビ「夜のヒットスタジオ」の元プロデューサー渡辺光男や、長年にわたって彼女のスタイリストを務めた東野邦子も役員に名を連ねていたが、二人とも20年以上、明菜に会っていないという。

 明菜が華々しい活躍をみせた80年代。日本経済は空前のバブル景気に沸き、90年代の足音が聞こえた頃から、右肩上がりを続けた株価と地価が下落してバブルは崩壊した。その盛衰と軌を一にするように、明菜の人気にも陰りが見え始めた。