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2021/11/25

中森家から戸籍を抜いた

 一つの節目は、95年6月に訪れた。癌を患い、長く闘病生活を続けていた最愛の母、千恵子を亡くしたことだ。明菜は通夜には顔を見せたが、葬式には「仕事があるから」と出席せず、この日を境に家族とは完全に没交渉となった。

 父親の明男が語る。

「家内が亡くなる少し前に、事務所の若いスタッフが何人も来て、『本人が中森家の戸籍を抜けたいと言っていますので、よろしくお願いします』と言われました。『冗談じゃない。事前に何の相談もないのに』と怒って帰って貰いましたが、あの子も成人ですから、戸籍は勝手に抜いたんでしょう。ただ、今でも私は不服に思っていますよ」

 明菜は“分籍”の手続きまでして、家族との繋がりを自分の歴史から消し去ろうとしたのだ。

 6人兄弟姉妹の5番目、三女として育った明菜は、歌手志望だった千恵子の影響で幼い頃から歌い手を目指した。決して裕福な家庭ではなかったものの、母親は娘のためにピアノを買い、4歳からバレエを習わせた。デビューが決まり、ヒットチャートを駆け上がる娘の活躍を誰よりも喜んでいたのが母、千恵子だった。

中森明菜(1982年当時)

 強い絆で結ばれていたはずの家族は、その後、明菜が稼ぐ莫大な金を巡る疑心暗鬼で分裂していく。しかし、88年に母親に癌がみつかると、明菜は翌年、母の療養のためにハワイのマウイ島に約1億円で別荘を購入。母への思慕の情は決して途絶えたわけではなかった。

 その母の死後、家族に背を向けた明菜は、本業の歌手活動でも、かつての栄光を取り戻せないでいた。

30歳を機に初のディナーショーにも挑戦

 当時の音楽シーンは、88年のシングルCDの登場により、再び活況を取り戻し、J-POPが全盛期を迎えていた。小室哲哉のプロデュース作品やZARDなどビーイング系のミュージシャンを中心に100万枚を超えるミリオンヒットが続出。そのなかで、明菜はアイドルではなく、一表現者として、自分の立ち位置を探す試行錯誤を繰り返した。

 94年には初のカバーアルバム「歌姫」をリリース。幼い頃に親しんだ岩崎宏美の「思秋期」や日本のロック史に残る名曲、カルメン・マキ&OZの「私は風」などを独自の解釈で見事に昇華させた。96年には30歳を機に初のディナーショーにも挑戦したが、一方でトラブルメーカーのイメージが先行し、セールスは頭打ち。芸能界の仕事に不慣れな江田のマネジメントで、またしても現場に混乱が生じていた。

中森明菜(1987年当時)

「江田さんは、人を介してショーケン(萩原健一)の所属事務所の元社長、桜井五郎さんの力を借りることにしたんです。桜井さんは寺内タケシとブルージーンズの歌手から、渡辺プロのマネージャーに転じた芸能界の裏も表も知り尽くしたような人物でした。破天荒なショーケンの全盛期を支えた手腕を見込んで、扱いが難しい明菜の調整役を期待したのです」(NAPCの元関係者)