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2021/11/25

 このツアーは、収支も黒字となり、まずまずの成果を残したが、看過できない問題がいくつも持ち上がっていた。ツアーに先立ち、大手資本の音楽事業会社から、「費用は全額こちらで持つので、ツアー映像を撮らせて欲しい」とオファーがあり、マネジメントの責任者として江田敏明にも話が伝えられた。

 先方から「明日までに答えが欲しい」と迫られ、江田も「分かった」と答えていたものの、翌日、江田の電話は一向に繋がらなかった。そして、この契約はご破算となった。すべては杜撰なマネジメント体制に起因するが、そのルーズな体質は、さらに深刻な問題を引き起こした。

デビュー当時の中森明菜 ©共同通信社

「明菜の事務所と提携していた『インディジャパン』が、ディナーショーなどの興行権を二重に売っていたのです。当初は、芸能界の重鎮が役員を務める興行会社と契約していたのに、契約を1年残して別の演歌系の興行会社と契約。当然クレームが入ったのですが、事情がよく分かっていない江田さんは『二重契約ではない』と言うばかり。結局、数千万円の契約金を巡って大揉めに揉めました」(元インディジャパン関係者)

 いずれも明菜の与り知らないところで起こったトラブルだったが、彼女を支えるチームの歯車は、確実にズレ始めていた。この頃から「明菜がホテルで暴れて調度品を壊し、出入り禁止になった」といった奇行の風聞が囁かれるようになる。

「明菜にラーメンを掛けられているのを見たことが」

 彼女の怒りの矛先は、唯一甘えられる“身内”の江田に向けられた。「私は一度、江田さんが明菜にラーメンを掛けられているのを見たことがあります。それでも江田さんは逆上することなく、彼女を宥め、守っているような印象があった」(同前)

中森明菜(1987年当時)

 明菜に手を焼いた江田は、外部から新たに幅広い人脈を持つ男を招聘した。NAPCの顧問となった男は、人脈を駆使して仕事をとり、現場にもまめに顔を出したが、その実体は山口組の元組員だった。

「本人も元組員であることを隠そうとしなかった。明菜の仕事を手掛けることで、芸能界で一発勝負を賭けようとしたんでしょう。ある時、彼がとって来た仕事を明菜がすっぽかした。すると、彼は江田さんをボコボコに殴り、江田さんの目の周りは真っ黒になっていました」(同前)

 もはや瓦解は時間の問題だった。

 年が明け、99年2月、明菜はドラマ「ボーダー 犯罪心理捜査ファイル」(日本テレビ系)に出演。しかし、番組は最終回を待たず、途中で打ち切りとなった。表向きの理由は、明菜の骨折とインフルエンザだったが、それはカムフラージュに過ぎなかった。