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2021/11/25

新事務所の社長兼マネージャーが与えた“隠れ場所”

 2000年代に入ると、明菜の仕事のペースはスローダウンし、演歌やムード歌謡、フォークソングなどのカバーアルバムを次々と発売。歌い手としての力量を見せつけたが、往時の人気が戻ることはなかった。彼女はNAPCの後の、新しい事務所の社長兼マネージャーが与えてくれた“隠れ場所”に籠り、今も息を潜めている。

 87年にリリースした名曲「難破船」は冒頭、溜を作って、“たかが恋なんて”と畳み掛けていく、アウフタクト(弱起)で始まる。メロディー先行で作られた曲で、サビまで完成したところで、出だしの歌詞が浮かばなかった。そこにアウフタクトのアイデアが浮かぶと、音符が躍動を始め、一気に詞が完成したという。

 歌手の加藤登紀子が作詞作曲し、元々は彼女がステージで唄っていた作品だ。加藤が語る。

「『難破船』は、絶対に別れないと誓っていた私の20歳の恋の終わり、23歳の頃を唄った曲です。作ったのは40歳を過ぎ、愛から遠ざかる自分を切なく感じていた頃でした。偶然、明菜さんがテレビで22歳の誕生日を祝ってもらう場面をみて、『誕生日の何が嬉しいの』というような不貞腐れた表情に、失恋のイメージが重なった。40代で過去を俯瞰している私ではなく、まさに恋愛の真っ只中にいる彼女にこそ唄って欲しいと思ったんです」

加藤登紀子氏 ©共同通信社

表舞台から姿を消して約4年、長い沈黙の意味は

 歌番組で時々一緒になる明菜は、誰もいないスタジオの壁際にポツンと佇み、そのシルエットが加藤の心を捉えてもいた。加藤は明菜に、「もしよかったらカバーしてください」と「難破船」を吹き込んだカセットテープを手渡した。

「その数日後、地方での私のコンサートに彼女から花が届きました。言葉は一切交わさなかったけれど、それが彼女の返事であり、やり方なんだと思いました」(同前)

 そのカバー曲は神懸った迫力を備え、聴く者の心を激しく揺さぶった。明菜も節目節目で、この曲を唄い、時には涙を流して、曲の世界を一層引き立てた。

「『難破船』から十数年後に、私のマネージャーだった人が明菜さんの仕事に関わっていた縁で、2曲ほど彼女に曲を作ったことがあります。彼女からは『ゼロ』というタイトルにできますかと返事を貰ったのですが、結局、実現はせず、音源も今は残っていません」(同前)

 実は、明菜は02年、デビュー20周年記念で、「ZERO album~歌姫2」と題したカバーアルバムをリリースしている。ジャケットはCG処理された彼女のスキンヘッド姿で、まさにゼロからの出発を期したコンセプトになっている。加藤が書いた「ゼロ」を、もし彼女がこの時に唄っていたなら、そこから新たな伝説が始まっていただろうか。

©文藝春秋

 中森明菜が表舞台から姿を消して約4年。長い沈黙は、彼女が才能を開花させた80年代への郷愁をいやが上にも誘う。80年代の芸能界は、元日に発表された沢田研二の「TOKIO」で幕を開けた。それまでジュリーの作詞を手掛けてきたベテランの阿久悠ではなく、コピーライターの糸井重里が作詞を担当し、新たな時代が始まったことを印象付けた。同じくコピーライター出身である売野雅勇は明菜の初期のヒット曲で作詞家として名を売った。

 隆盛を極める音楽業界には才能溢れる人材が集結し、時代の必然としてアイドル文化と良質なシティポップが生まれた。そのど真ん中を、全力で駆け抜けた。それが、中森明菜だった。

(連載完結/文中敬称略)

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