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上皇ご夫妻から「キコちゃん」と呼ばれ…秋篠宮さまが“学生時代に結婚相手を見つけないと難しい”と語った理由《眞子さんと佳子さまへの教え》

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2021/11/30

source : 文藝春秋 2010年4月号

genre : ニュース, 皇室

 秋篠宮さまが、11月30日に56歳の誕生日を迎えられ、誕生日を前にした記者会見で、10月26日の朝に長女・眞子さんを送り出された父親としてのお気持ちについて、「元気で暮らしてくれればいいなという気持ちでしょうかね。そういうことを最後に言ったつもりなんですけれども、ヘリコプターの音で全てかき消されてですね。向こうも何か言ったのですが、結局、何も聞こえずに終わりました」と述べられました。

「文藝春秋」は秋篠宮家の内実を報じてきました。秋篠宮さまと親交の深い江森敬治氏(毎日新聞編集委員)による「秋篠宮が私に語った『次男の覚悟』」(「文藝春秋」2010年4月号)を特別に全文公開します。(全3回の2回目/#3に続く)

眞子さま(当時)と佳子さま ©JMPA

(※年齢、日付、呼称などは掲載当時のまま)

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冷静な秋篠宮さま

 宮さまは、私の前では両陛下のことを、きまって「父」「母」と呼ぶ。皇太子さまのことは「兄」で、紀子さまのことは「家内」だ。一般の家庭となんら変わらない。こうしたところにも、自分を「特別の存在」として見たくはない、あるいは見せたくないと思う宮さまの基本的な考え方が垣間見える。さらにいえば、家族といえども相対化し、距離をとりつつこれを眺めたいとする宮さまの一貫した姿勢を私はみてとる。これは、学者や研究者の真理を探求する姿勢と相通じるものがある。宮さまは研究対象に限らず、自分の家族や置かれている周囲の環境に対してもどこか常に冷めた目を持っている。いつも距離を置きつつ眺め、これを冷静に分析しているのだ。

 この宮さまの性格に私は長年、考えを巡らせてきた。おそらく、天皇家の次男として生まれたことが、ほぼ全てにわたる宮さまの思考、行動の原点なのではないか。次男という立場の重み、次男の限界、あるいは可能性。そして、次男坊としてどう身を処して生きていくのか。こうしたことを宮さまは日夜考え続けて来たのだと思う。兄皇太子は、将来、天皇となるという明確な目標がある。しかし、次男にはそうした確かな着地点がない。その代りに自分は、自由を得たい。だから、研究に没頭し好きな道に進もうと考えた。自由を得るためには、結婚して両陛下や家族たちから早く独立することが重要だと考えたのだ。皇族として年々、多彩となる公務を務める一方で、結婚生活と研究生活は、宮さまの成長を支える両輪となった。

2020年、秋篠宮さまのお誕生日に際してのご近影 宮内庁提供

「速攻」の結婚

 宮さまは昭和40年11月30日に生まれた。兄皇太子さまとは学年でいえば6年違い。幼稚園から大学まで学習院で過ごし、兄皇太子さまと同じ道を歩んだ。大学卒業後、英国に留学。オックスフォード大大学院動物学科で学んだ。

 そして帰国後間もない平成2年6月に紀子さまと結婚した。この時、宮さまは24歳、紀子さまは23歳。平成5年6月に33歳で結婚した兄、皇太子さまよりも約3年早い結婚だった。

 二人の出会いから結婚に至るプロセスの大半は、母校・学習院大学で育まれた。「キャンパスの恋」として知られている。昭和60年4月、大学2年生の宮さまは、文学部に入学したばかりの紀子さまと大学構内の書店で初めて出会った。これはまったくの偶然であった。結婚後、数年してから宮さまは「あの時、出会わなければ、私はまだ独身だった可能性が大いにあった」と、周囲に漏らしたが、今から思えば運命的な出会いだった。紀子さまの父親である川嶋教授は、天皇陛下がOBの馬術部の部長を務めていたこともあり、宮さまは川嶋教授と面識があった。宮さまは紀子さまの雰囲気が教授に似ているな、との第一印象を持ったそうだが、こうしたこともプラスに働いたようだ。

 そして、ここからがいかにも宮さまらしいのだが、出会った翌5月には、当時、宮さまが住んでいた東宮御所に紀子さまを招待し、両陛下(当時は皇太子ご夫妻)に紀子さまを紹介したのだった。まさに速攻である。そして、約1年後には大学近くの交差点でプロポーズする。

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