ジャニーが美少年だった頃
一見、ありふれた寺社で撮られたかに見える下の写真。実は、海外で撮影されたものである。場所は、ロサンゼルスの日本人街、「リトル東京」に立つ高野山米國別院。終戦から4年後、1949年頃のことだった。
後列にいるのは、当時の住職、高橋成通(せいつう)、手前の少女はその長女。少女の両脇に佇む2人は兄弟で、写真の直前に、戦後の混乱をきわめる日本からやって来た。
兄、喜多川真一(まさかず)、弟、擴(ひろむ)。小柄ながら彫りの深い顔立ちで、ダブルのスーツを洒脱に着こなした美少年――彼こそは、後年、芸能界に君臨したジャニー喜多川の若き日の姿である。(全2回の1回目。後編を読む)
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「私は10歳くらいと幼かったからでしょうか、ジャニーさんのことはあまり記憶にないのです」
こう語るのは、写真の少女、「今では立派な高齢者」と笑う日系アメリカ人二世のフランシス・ナカムラさん(83)だ。
「でも、ジャニーさんのお父さん、諦道(たいどう)さんのことは憶えていますよ」
高野山真言宗の僧侶だった諦道は、戦前の1924年に渡米し、米國別院の住職を務めた。また私生活では、滞米中に妻、江以との間にジャニーを含む3人の子に恵まれた。喜多川一家は1933年に日本に帰国したが、諦道の跡を継いだのがフランシスさんの父、高橋成通だった。
「1960年に、父と日本旅行した時でした。大阪の繁華街の小路に甘味処のような小さなお店があって、そこに諦道さんがいらしたんです。ご自分で善哉を作って出してくれたので、私はごく普通の店主かと思ったの。後で父から、あの方が前住職だったと聞いて驚いたくらい、お坊さんには珍しいフレンドリーな態度が印象的でした」
事実、諦道は気さくで人情家の僧侶として、ロサンゼルスの日系社会ではちょっとした有名人だった。仏事のほかに、婦人会やボーイスカウトの設立、奉納演芸の開催、それに、ロサンゼルスに寄港する日本海軍の歓待に尽力し、邦人の心をつかんだ。帰国を決めた際には、「引き止め運動」が起きたと、当時の日系新聞は伝えている(『羅府新報』1933年8月25日)。
もしも、諦道が周囲の引き止めを受け入れ、アメリカに留まっていたら……。フランシスさん親子は、戦中、苦難の日々を送ったが、それらはすべてジャニー喜多川に起こりえたことだった。その意味で、フランシスさんは、“もうひとりのジャニー”だといえる。
「帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ・イギリス軍と戦闘状態に入(い)れり」
ラジオに、真珠湾攻撃の戦果と日米開戦の第一報が臨時ニュースとして流れたのは、今からちょうど80年前の1941年12月8日、早朝7時。すべては、ここから始まった——。