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《秘蔵写真》「FBIに捉えられ、便器に頭を入れて寝た父」真珠湾攻撃から80年、ジャニー喜多川が米国に残っていたら

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2021/12/08
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強制収容所、家族番号札をその身につけて

 大黒柱を失ったフランシスさんたち母子の暮らしはより悲惨だった。

 真珠湾攻撃から約2カ月後の1942年2月19日、時の大統領、ルーズベルト、「国防上危険な者の退去を可とする」大統領令9066に署名。

 立ち退きとそれに続く強制収容が人々の口にのぼり始め、不安を感じたフランシスさんの母は、別院に身を寄せることにした。その頃別院は、すでに同じような立場の日系人を受け入れ手狭になっていたため、生まれたばかりの乳児と幼児3人の5人家族の引越しは、着の身着のままといったふうだった。

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 3月2日、西部防衛司令官、立ち退き布告。

 これにより、カリフォルニア州を含む太平洋岸3州と、アリゾナ州南部の日系人は、居住地からの退去を強制された。しかし、ほとんどの日系人は立ち退こうとしなかった。というより「できなかった」のである。真珠湾攻撃後、日系人の預金は凍結されたし、第一、戦争の真っ只中に未知の土地に越すのは危険だった。ましてや、夫、父不在のフランシスさん母子は身動きが取れない状態だった。

高野山米國別院全景。真珠湾攻撃の前年に新築され、今も「リトル東京」のシンボルだ photo courtesy of Koyasan Beikoku Betsuin of Los Angeles

 ほどなくして立ち退きの日が訪れる。それはすなわち強制収容所行きを意味した。フランシスさんの母、鈴江さんは生前、こんな文章を書き残している。

「荷物は両手で持てるもののみと命じられた。子だくさんに立ち往生する私を気づかった別院の檀家さんが、次女をおぶってくれた。私自身は次男を背負い、右手にオムツとミルクを抱え、左手で長女の右手をきつく握りしめた。そして、長女の左手を長男にしっかり握らせて、収容所行きバスの長蛇の列に並んだ。まるで、子連れの物乞いのような憐れな姿であった」

 鈴江さんはじめ、日系人各人の胸元には、家族番号を記した札が下げられていた。

番号札を付けられて強制収容所行きのバスを待つ日系家族。喜多川家がアメリカに残っていたらジャニー氏も…… photo Dorothea Lange, WRA, National Archives

 連行先は、ロサンゼルス郊外の競馬場。米戦時転住局は、最終的に米大陸内陸部に全10の収容所を造り、約12万人の日系人を収容したが、初期には工事が間に合わずアッセンブリーセンターと呼ばれる仮収容所に送りこんだ。センターには、多くの場合、家畜場や競馬場が充てられた。

 再び鈴江さんの文章を引用しよう。

「馬小屋が住処だった。つい数日前まで馬がいたのは明らかで、隅には糞が残っていた。大きな袋と藁が支給され、それで布団を作って寝ろという。日が暮れると、蚊の大群が容赦なく私たちを襲った。それからの日々、幼子を蚊から守るために、私は幾夜も不眠の夜を過ごした」

 一家は夏までここに収容されたが、不衛生だったため「子どもたちは目ヤニが溜まり、朝になっても目を開けられず」、暑い日には、「床のコールタールが溶けて足元や生活必需品が沈んだ」。