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《秘蔵写真》「FBIに捉えられ、便器に頭を入れて寝た父」真珠湾攻撃から80年、ジャニー喜多川が米国に残っていたら

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2021/12/08
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銃口は日系人に向けられていた

 競馬場に続いて一家が送られたのは、全米10カ所の収容所でももっともロサンゼルスから遠い南部アーカンソー州のロウアー強制収容所。

 収容所といっても、アメリカのそれはナチスのような虐殺は行っていない。所内には、素朴ながらも学校や病院があったし、3度の食事も供給された。

 しかし、収容所は有刺鉄線と監視塔で囲まれ、塔に立つ米兵たちの銃は日系人に向けられていた。住居はバラック。50平方メートル程度のひと間に7、8名が押し込められ、あるのは裸電球と粗末なベッド、ダルマストーブだけ。食堂や水回りは共同で、トイレに間仕切りはなかった。さすがにこれは後に改善されたが、丸見えのトイレで他人と並んで用を足す屈辱は察するに余りある。

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収容所の室内。狭いバラックに7、8名が住んだ。トイレや食堂はなく共同だった photo Yukiko Yanagida McCarty

 しかも、自然環境が劣悪だった。扉や窓を締め切っても隙間から入る砂塵が床にたまり、夏は灼熱、冬は、「オムツを干せば瞬時に凍る。畳めばお煎餅のように割れてしまう」と、鈴江さんが綴ったほどの厳寒だった。

 なによりつらかったのが、次男が原因不明の高熱で命を落としかけた時。鈴江さんは、心配のあまり気を失ってしまった。

全米10カ所の日系人強制収容所はどこも荒野にあった photo Dorothea Lange, WRA, National Archives

 日系人の強制収容に関しては、同じ敵国人であるドイツ、イタリア系移民には実施しなかったこと、日本人である一世だけでなく、アメリカ国籍を有する二世をも対象としたこと、この2点だけをもっても米政府は批判を免れることはできない。

 歳月とともに、各地の収容所にはFBIから解放された人々が合流するようになったが、そこに高橋の姿はなかった。

 高橋は、中立国を通じ米政府に依頼書を出し続けた。ようやく同居が認められた一家が、テキサス州の抑留所で再会を果たしたのは終戦前年の晩夏。真珠湾攻撃から3年近くが過ぎていた。

(文中一部敬称略)

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