文春オンライン

「夢は『美 少年』を高野山米國別院の舞台に立たせること」LAでブロマイドを売っていたジャニー喜多川の青春時代《真珠湾攻撃から80年》

#2

2021/12/08

 真珠湾攻撃の日、ジャニー喜多川は10歳だった。後年、彼とともにジャニーズ事務所を支えた姉のメリーは13歳、真ん中の真一は11歳。高橋家の子どもたちより年長とはいえ、アメリカに残留していたら同じ苦境に立たされていただろう。(全2回の2回目。前編を読む)

メリー氏

◆ ◆ ◆

足繁く別院に通ったジャニー

 日米開戦時、大阪にいた喜多川姉弟は、空襲が激しくなると和歌山に疎開した。そして終戦から4年後、米国生まれのため米国籍を持っていた3人はアメリカを目指す。敗戦後の占領下で海外渡航が極端に制限されていた時代に、彼らが渡米できたのはそれゆえのことだ。惨めな被占領国、日本にいた姉弟が、戦勝国、アメリカの特権を活かすのは当然ともいえる選択だった。

ADVERTISEMENT

 高橋家がロサンゼルスに戻ったのは、終戦翌年の5月。住居を失っていたので、この時も、日本人街「リトル東京」の高野山米國別院に仮住まいした。別院は戦後、収容所から戻ったものの行き場のない日系人のために建物を開放していた。

 渡米した喜多川姉弟も別院の人脈を頼る。姉弟が身を寄せたのは、リトル東京の隣町にある別院総代の家だった。

いまもロサンゼルスに残る、渡米直後の喜多川姉弟が身を寄せた家 photo Yukiko Yanagida McCarty

 そんなある日、フランシスさんとジャニーは別院で出逢い、件の写真(下)を撮ったのである。

ジャニー喜多川氏(右)、18歳前後の貴重な写真。終戦直後、ロサンゼルスの高野山米國別院の中庭で  photo courtesy of Minnie Takahashi

 ジャニーは足繁く別院に通った。なぜなら、そこには、大好きな芸能が溢れていたからだ。父、諦道が力を注いだ奉納芸能は、その後も脈々と引き継がれていた。別院は1940年に建て替えられたが、本来なら半分の広さで充分な本堂をあえて1000席収容の大本堂に設えた。「日系人社会向上を願って、演芸・音楽・茶道・華道の紹介と普及のホール」(前出『アメリカ開教』)とするためだった。

高野山米國別院全景。真珠湾攻撃の前年に新築され、今も「リトル東京」のシンボルだ photo courtesy of Koyasan Beikoku Betsuin of Los Angeles

 生前のジャニーは、数少ないインタビューのなかでこう述べている。

「終戦直後のことですからね、とにかく場所がないでしょう。当時日本から公演に来られた芸能人の方々は皆さん、うちの教会(注・別院のこと)を劇場代わりに使って下さったんですよ。その頃一番最初に来たのが女優の田中絹代さん。そして山本富士子さんが初代ミス日本として。ひばりさんが12歳でアメリカに来た時のことはいまでも鮮明に覚えています」(「週刊SPA!」1990年7月4日号)