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「夢は『美 少年』を高野山米國別院の舞台に立たせること」LAでブロマイドを売っていたジャニー喜多川の青春時代《真珠湾攻撃から80年》

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2021/12/08

「マネージャーとしての意識を芽生えさせるキッカケに」

 確かに、別院が刊行した『五十年史』や『百年史』には、戦後、本堂で人気絶頂の浪曲師、広沢虎造や漫談家の草分け、大辻司郎が演じたり、田中絹代が婦人会と交流したことが記されている。とはいえ、ジャニーの発言後半部分はいささか誤解を与える。山本富士子や美空ひばりが、別院で公演した記録は見当たらないのだ。

高野山米國別院の本堂で公演する浪曲師・広沢虎造(1950年)  photo courtesy of Koyasan Beikoku Betsuin of Los Angeles

 別の雑誌によるジャニーのインタビューを読んでみよう。

「たまたま親戚に宮武東洋という写真家がいましたので、彼ら(注・日本の芸能人)のブロマイド写真を無料で撮ってもらうように頼んだんです。そして、場内でそれを売って、その売り上げを全部、日本から来たアーチストにあげたんです。僕はまだ子供だったけど、(美空)ひばりちゃんを始めとして、アメリカに来たアーチストには全部関わっているんですよ」(「VIEWS」1995年8月号)

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青春の一時期、高野山米國別院に足繁く通ったジャニー喜多川氏

 宮武東洋は、戦前からロサンゼルスやハリウッドで活躍した日系人のカメラマンで、別院近くに写真館を構え、また別院の檀家でもあった。人気カメラマンの宮武は、終戦直後に、日本からロサンゼルスを訪ねた著名人をほぼ全員といっていいほど撮影した。宮武のアルバムには、1953年に訪米した当時の皇太子(現上皇)の姿も見られる。

 しかし、宮武家の家系図に喜多川の名は一切見られない。どうやら、ジャニーは宮武写真館でアルバイトをしていただけのようだ。高齢の別院信者がこんな証言をしている。

「ヒー坊(注・ジャニーの渾名)もここへ来て働いていたわね。カメラマンがスターの写真を撮って、そのブロマイドを売っていたのを覚えています」(『ワシントンハイツ』秋尾沙戸子著)。

 事情を確かめるべく、宮武の次女、ミニー・タカハシさん(83)を訪ねると、

「ヒー坊たち姉弟は、よくうちに遊びに来ていました。あの頃の写真館には、現像、紙焼き、撮影助手と、いくらでも仕事があったので時にはアルバイトもしたでしょう。でも、多忙とはいえ、我が家の暮らしにそれほど余裕はありませんでした。私たちも収容所に送られたので、父は戦後、一からやり直した。ブロマイドの売り上げを全額、日本の方々に渡したりはできなかったはずですよ」

 と、小さく笑って答えた。

 とまれ、別院や宮武写真館での体験が、父譲りの芸能好きな血をたぎらせた。ジャニー自身は、「今から考えるとそれが自分の中にマネージャーとしての意識を芽生えさせるキッカケになりました」と述懐している。(前出「週刊SPA!」)。

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