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〈麻生太郎が語る祖父・吉田茂〉日米安保の調印にこぎつけた吉田茂の“リアリズム”

「文藝春秋」新年特別号「100年の100人」より

2022/01/02

 戦後日本を牽引し、復興の礎を築いた宰相・吉田茂(1878~1967)。孫であり自身も首相を務めた麻生太郎氏が、吉田の政治家としての手腕を率直に評価する。

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リアリストとしての“吉田茂”

 吉田茂の何がすごかったか。後世に名を残す理由を改めて考えてみると、真っ先に思い浮かぶのは、彼の決断力ですね。

 例えば、1947年の第1次吉田内閣の時の選挙で、自由党(現自民党)は社会党に大敗しています。この時、社会党は自分の党から首相を出すつもりはなく、吉田に首相続投の話を持ちかけた。ただ、吉田は「それは憲政の常道に反する。首相は第一党から出すべきだ」とあくまでも筋を通し、申し出を振り切って下野しているんです。

祖父・吉田茂の「決断力」を語った麻生太郎氏

 翌年に昭電疑獄事件で社会党政権が瓦解し、迎えた次の選挙では自由党が勝利。吉田は首相の座に返り咲きました。この時も自由党の過半数獲得は難しいため社会党と連立するとの観測もありましたが、吉田は、少数与党のまま選挙に打って出て大勝したわけです。個人的には、この第3次吉田内閣成立にいたる過程こそ、政治家として彼の決断力が一番光った瞬間だと思っています。

 もう一つ、極めて「現実的」だったこと、これも吉田の特徴です。

 1951年には、渡米してサンフランシスコ平和条約と日米安全保障条約を結んでいますが、とくに後者においては吉田の現実主義的なセンスがもっとも発揮されました。

 当時の米国の国務省は、日本を統治下に置いても金ばかりかかるから、早く手放したかった。一方の国防総省はソ連の脅威に備えて、日本の駐留米軍を維持したかった。二つの省庁間で意見が完全に割れていたんです。その事情をいち早く察知して、間隙を突いたのが吉田でした。

「独立の約束を取り付けるかわりに、駐留米軍は認める」という国務省と国防総省のどちらも納得する提案を持ちかけて、日米安全保障条約の調印にこぎつけた。政治家にしては珍しいほどの現実的なバランス感覚の持ち主で、もし吉田に文春の経営を任せたら、案外、上手いことやったかもしれない(笑)。

 ただ、日米安保に政治生命を懸けていたのは事実で、その証拠に、サンフランシスコ平和条約には、同行した池田勇人や苫米地義三もサインしていますが、日米安保の方には吉田のサインしかない。米国との交渉にあたった自分が全責任を負うから、他の人間にはサインさせないという思いがあったんでしょう。